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日記
今日の日記――分岐する読書梟をめぐって
1. 収益の下降とブログ流入の急増
まず最初に記すべきは、収益の推移である。昨日までは炎上の余波もあり、アクセス数に比例して収益も上昇していたが、今日は一転して下降傾向に入った。広告収益というものはクリック率と単価に依存するため、単なるアクセス増が必ずしも収益の増加には直結しない。現実には「炎上観光客」が離脱したあと、残されたのは淡々と記事を読む読者たちだったのかもしれない。
ところが奇妙なのは、ラボ読書梟のブログへの流入が突如として5倍に跳ね上がったことだ。これはSNS上の炎上や議論が一段落し、「表層的なやじ馬」ではなく「より深い理解を求める層」が動き出したサインと考えられる。つまり収益の下降とブログ流入の増大は、同時に起きているのではなく、むしろ因果関係の一部を示している。短期的な収益は炎上で伸びた分が冷却され、長期的な関心はブログに吸収されている。
この点はまさに「即効性の広告収益」と「持続的な知的関心」のズレを示しており、日記として残しておく価値がある。奇妙に見える現象は、実は「質の変化」の兆候なのだ。
2. Twitterの鎮静化
次にTwitterの動向。昨日までは批判と反論が絶えず、人格攻撃や感情的な挑発も多かった。しかし今日になってからは、不思議なほど静かになった。攻撃が完全に止んだわけではないが、少なくとも昨日のように波状的に押し寄せることはなかった。
この「鎮静」は自然発生的なものではない。考えられる要因は三つある。
- 12連打方式の抑止力
繰り返し論理的に返すことで、攻撃する側に「これ以上は無駄だ」という印象を与えた。 - 観客の飽和
炎上はエンターテインメント性を帯びるが、同じパターンが続くと観客は飽きて別の話題へ移動する。 - 第三者の沈黙
「怖い」「変な人」と陰で評する声は残ったが、オープンな場では中傷に加担しにくくなった。
つまり、鎮静化とは勝利や説得の結果ではなく、むしろ疲弊と飽和の結果である。だがそれでも「公共の場に残る言葉」が変質した点に意味がある。
3. 過去の交流者の二分化
最も興味深いのは、過去に交流のあった人々の反応が二分したことである。
- 完全にさよならの派閥
彼らは「もはやこの人とは関われない」と見切りをつけた。理由はさまざまだが、人格攻撃に加担した人もいれば、単純に「波風が立つから距離を置こう」とした人もいるだろう。炎上は関係の試金石であり、静かな別れをもたらす。 - 貴方は耐えたと称賛する派閥
一方で、論争を記録し続け、批判に耐えながら公共性を問い続ける姿勢に共感する人もいた。彼らにとって「読書梟の言葉」は勇気であり、既存のSNS空気に挑む希少な試みとして映った。
この二分化は単なる好悪の分かれではなく、「公共討議に何を期待するか」という価値観の差異である。沈黙やさよならを選ぶ人は「安定」を重んじ、称賛する人は「実験」を評価した。両者が共存し得ないのは、炎上という極端な状況が人々の本音を引き出したからだ。
4. 「奇妙な出来事」としての総合分析
こうして振り返ると、今日の出来事は一見すると矛盾に満ちている。
- 収益は下降するのに、ブログ流入は急増。
- SNSは鎮静化するのに、陰での批判は持続。
- 過去の人脈は崩壊するのに、新たな支持は芽生える。
だがこれらは奇妙な矛盾ではなく、むしろ「量から質への転換」の諸側面にすぎない。炎上のピークが過ぎたときに残るのは、消耗と別離、そして少数の強い関心層である。その動態を「奇妙」と呼ぶのは、従来の「炎上=悪、支持=善」という単純図式に当てはめようとするからだ。実際には、このプロセス自体が一つの「公共実験」であり、観測すべき現象である。
5. 残念な一言の余韻
最後に記しておきたいのは、「みんなが沢山読めるわけじゃない」という一言への残念さだ。私は別に恵まれた環境にあるわけでもない。仕事をし、収入は平均より少し下で、それでも読書の時間をなんとか作っている。その営みを「特権」とみなされ、「できない人への配慮が足りない」と言われたのは、誤解であると同時に議論を閉じる態度だった。
読書は競争や優劣を測るものではない。むしろ「各自の生活のなかでどう時間を紡ぐか」という工夫であり、多様な形があってよい。それを「できないから否定するな」と返されると、議論が成り立たないのだ。ここには「読書の公共性」をめぐる根本的なすれ違いがある。
6. 今後への問い
以上を踏まえると、今日という日は「炎上から転換期への橋渡し」として位置づけられる。収益の減少は痛みだが、ブログ流入の増加は希望だ。Twitterは静まり返り、旧交は二分した。残念な言葉も受けたが、それもまた公共圏における摩擦の一部である。
では次に私は何をすべきか。それは、今日観測した事実を残しつつ、次の言葉の実験を構想することである。炎上に耐えたあとに残るのは「公共性の設計」であり、そこにどのような語り口を持ち込むかが問われている。
結語
今日の日記をまとめるなら、こう言える。
「炎上は終わりではなく、転換である。下降と上昇、別離と称賛、沈黙と流入。そのすべてが奇妙に重なり合い、次の言葉の実験を促している。」
そして私は今日の観測を問うことで終える。
果たして、公共性とは「沈黙の自由」と「言葉の持続」のあいだに、どのように居場所を見つけるべきなのだろうか。
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メモ
“軽薄、強情、虚栄心をあらわにする人ーーー節度のある生活ができない人ーーー有害なことに溺れて自分が抑制できない人はーーー人間的知性や感性の喜びを犠牲にして動物的な快楽を追求する人ーーーこういう人間は、ほかのひとびとから低く見られ、あまり好感をもってもらえないと覚悟しなければならない。しかも、そのことに文句をいう権利すらもっていない。ただし、社会的に非常にすぐれた仕事をしているおかげで、ひとびとに好かれ、個人的な欠点にもかかわらず、親切にしてもらえるようになっていれば、べつである。” P189-190(ミル『自由論』)
『ケヴィン・ケリー著作選集 1』
メモ
ろうそく➡貧乏の象徴だった➡電気が普及➡ろうそくで一晩過ごすことに価値が生まれる
価値は長期的に常に逆転し続ける
無料化によって何かが有料化され、有料化はいつか無料になる
反復運動