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批評書を手に取ったら“自分で考えたいタイプなんで”とか言うのやめてもらっていいですか?

この読書ブログ「読書梟」では、日々の読書を通じて考えたことを記録しています。

本屋で批評書の棚に立ち寄ると、必ず聞こえてくる気がする。
「いや、批評とか読むより、自分で考えたいタイプなんで。」
この一言には、妙な清々しさがある。
他人の考えに頼らない、思考の自立。
一見すると知的な潔癖さだが、実のところそれは思考の免罪符としての「考えたい」なのだ。

「自分で考えたい」という言葉は、どこかで「他人の思考に触れるのが面倒くさい」と訳せる。
だって、他人の思考に向き合うのは時間がかかるし、面倒で、そして何より“自分の考え”が崩れるリスクがある。
現代人にとって、「考えること」とは、“自分を脅かさない範囲で考えること”を意味している。
その結果、「考える自由」は「自分の範囲を超えない自由」として安定した。
それが、“自分で考えたいタイプ”という現代語のやさしい響きの正体だ。

でも冷静に考えよう。
本を読むことは、そもそも「他人に考えさせられること」だ。
自分の中で世界が少しだけズレて、
言葉が自分のものではなくなる瞬間に、思考は生まれる。
つまり、“自分で考える”とは、他人の思考を受け入れる訓練のことだ。
それを拒否して“自分で”と言うのは、まるで「泳ぎ方は自分で考えたいんで」と言って海に飛び込むようなもの。
結果、溺れるまでが思索である。

この国では、なぜか「自分で考える」が道徳のように扱われている。
それは「従属しない」という倫理が、いつの間にか「参照しない」という快楽にすり替わったからだ。
つまり、“自分で考えたい”という言葉は、自由のポーズを借りた孤立の宣言になっている。
そしてその孤立を、みんながどこかで誇りに思っている。
「自分の頭で考えた」ことが、内容よりも正義の証拠になる社会。
結果、思考の質よりも、「思考している感じ」の演出が勝ってしまう。

批評書を手に取ることは、他人の思考の濃度に耐えることだ。
それは、心地よい読書ではなく、しばしば自我のほころびを晒す行為になる。
だからこそ、「読まない」という選択肢には誘惑がある。
「批評なんか読んでる暇があったら、自分の言葉で考えたい」――
その言葉の中には、自由も、怠惰も、虚栄も全部詰まっている。
そして私たちは、どれがどれかもう区別できない。

そもそも“自分で考える”という発想は、近代以降のフィクションである。
啓蒙が産んだ個人の神話。
だが今、その神話はほとんど個人の孤立の言い訳として機能している。
スマホの画面を見つめながら、
「自分で考える」と言いながら、
実際にはアルゴリズムに考えさせられている。
私たちが拒否しているのは他人の思考ではなく、
「自分の思考の遅さ」そのものだ。

そしてこの“遅さ”こそが、本来、批評という営みの核にある。
批評とは、すぐには答えを出さない知のフォーム。
他人の思考に触れ、時間をかけて再構成する試みだ。
だから、批評を読むという行為は、
「他人にゆっくり考えさせてもらう」贅沢に近い。
その時間を奪うのが、現代の速さだ。
“自分で考えたいタイプ”という言葉には、
この速度社会への屈服が無意識に刻まれている。

それに、“自分で考える”という言葉の中には、
「他人の思考に従ったら負け」という競争的ロジックも潜んでいる。
つまり、「自分で考える」と言うことで、
他人を“従属してる人”のカテゴリに押し込む。
この構造そのものが、現代の知的マウンティングの精密な装置だ。
「読まないけど考えてる」――この矛盾を、誰もがどこかで演じている。
本当は“自分で考える”ことより、“自分で考えてる感じ”を維持したいのだ。

だが、思考というのはそもそも他者的な現象だ。
自分の中で完結する思考など存在しない。
それは必ず、他人の言葉を介してしか起動しない。
言葉がすでに他人のものである以上、
「自分の考え」などというものは、借り物の組み合わせにすぎない
それでも、そこに“自分なりの言い回し”をつけて、
「これは自分の考えです」と署名する。
そのささやかなズレの中にしか、主体性は生まれない。
つまり、“自分で考える”とは、他人の言葉を自分の声で読み直すことなのだ。

それなのに、批評を遠ざける人ほど「自分の声」にこだわる。
彼らにとって“自分で考える”とは、“自分のトーンで話す”ことに近い。
だが声は、内容の代用品ではない。
声を立てるだけでは、沈黙を破ることはできない。
本当に考えるとは、他人の沈黙を引き受けることだ。
その沈黙の中で、初めて言葉が重さを持つ。
批評とは、その重さを測る行為なのだ。

私は思う。
「自分で考えたいタイプ」という言葉には、
ある種の“誠実な怯え”が含まれている。
他人の思考に支配されることへの恐怖。
そして、自分の無知に気づくことへの羞恥。
だからこそ、あの言葉は茶化す価値がある。
そこに、いまの時代の“知的防衛反応”が最もよく現れているからだ。

本当の自由は、“考える自由”ではなく、“揺らぐ自由”なのかもしれない。
他人の言葉に動かされ、信じかけて、また疑う。
その往復の中に、思索の呼吸がある。
「自分で考える」とは、
実は「他人に考えさせられながらも、自分を見失わないこと」だ。
批評書を読むことは、その訓練にほかならない。
他人の言葉の重さを測ることで、
自分の沈黙の輪郭を確かめる。
それは決して、誰かの考えをコピーすることではない。
むしろ、他人の中に自分を見つけることだ。

だから、批評書を手に取ったら“自分で考えたいタイプなんで”とか言うの、
やめてもらっていいですか?
それを言ってしまうと、本を読む自由も、他人に出会う自由も、
すべて失ってしまうから。
むしろ、「自分で考えたいタイプなんで」と言いながら、
ゆっくりと他人の思考に降伏してみよう。
その敗北の中にしか、自由は生まれないのだから。

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こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

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