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映画化されたら“原作の方が深い”とか言うのやめてもらっていいですか?

ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。

映画館を出たあと、静かにうなずきながら言う人がいる。
「やっぱ原作の方が深いよね」。
その一言で、たいていの会話は終わる。
まるで“知的勝利宣言”のように。
でもよく考えてほしい。
あれは本当に深さの話だろうか?
それとも、“深さを知っている自分”を守るための呪文なのではないか。

「原作の方が深い」と言うとき、人は作品を語っているようで、
実は自分の“鑑賞位置”を語っている。
つまり、「私は表層にいない側の人間ですよ」という合図。
文化的な“深度マウント”の始まりだ。
そしてその瞬間、作品はもう関係なくなる。
残るのは、“深い側”に立っていたいという姿勢だけだ。

確かに、映画は原作を省略する。
登場人物は減らされ、モノローグは削られ、
「文学的な余白」はスクリーンの外へ追いやられる。
でも、その“省略”こそが表現であり、
“深さ”とはしばしば、欠けた部分の想像力によって生まれるものだ。
なのに私たちは、完全さ=深さだと錯覚している。
原作の方が情報量が多いから、“深い気がする”。
けれど、情報量と深さは別物だ。
むしろ、情報を減らしても世界を立ち上げる力こそが、芸術の深さだ。

それでも、「原作の方が深い」と言いたくなる気持ちは、わかる。
あの言葉には、「ちゃんとわかっている自分でいたい」という痛みが潜んでいる。
現代の観客は、常に“理解している自分”でいなければならない。
SNSでは、すぐにレビューを書き、考察を共有し、
「わかってる人」と「わかってない人」のあいだに線を引く。
そこでは、“深さ”がコミュニケーションの通貨になっている。
だから「原作の方が深い」と言うことで、
自分の通貨価値を確認しているだけなのだ。

でも本当の“深さ”とは、理解ではなく沈黙に近い。
「わからないけど惹かれる」「説明できないけど残る」――
その“残響の質”こそ、作品の深さではないか。
つまり、「原作の方が深い」と言う人は、
深さを“説明できるもの”だと誤解している。
深さは、語れるうちはまだ浅い。

それに、「原作」と「映画」は、そもそも別の言語体系だ。
活字が扱うのは時間の流れであり、
映画が扱うのは光と瞬間だ。
それぞれの“深さ”は、翻訳不可能な異なる次元にある。
にもかかわらず、「原作の方が深い」という言葉は、
両者を“同じ物差し”で測ってしまう。
それはまるで、「音楽より絵画の方が深い」と言うようなものだ。
ジャンルを跨ぐとき、深さは相対化される。

だが、その“相対化された深さ”を前にすると、人は不安になる。
自分の感じたものが正しいのか、自信がなくなる。
だから、「原作の方が深い」という言葉は、
不安に耐えられない現代人の知的なおまじないでもある。
“わからないままに感じる”ことが、
いちばんのリスクになった社会の中で。

たとえば、映画を観たあと、
「なんかよくわかんなかったけど、すごかった」と言うのは、
今や勇気のいる発言だ。
なぜなら“よくわかんない”は、評価軸として不合格だから。
その空白を埋めるために、
人は「原作」を引っ張り出す。
「原作の方が深い」と言えば、
“わからなかった自分”を正当化できる。
つまり、理解できなかった責任を原作に転嫁するのだ。

本当は、映画と原作の関係ってもっと曖昧でいいはずだ。
映画が原作を裏切ることで、
初めて見えてくる“読めなかった原作”というものもある。
むしろ、良い映画ほど、原作の欠落を発見させてくれる。
「原作を読んでいたのに、こんなに違う世界だったんだ」と驚くとき、
私たちはようやく“読むこと”の意味を更新している。
だから、“裏切り”は批判ではなく、再読への誘いなのだ。

思えば、「原作の方が深い」と言うとき、
私たちは“深さ”を守ろうとしている。
それは文化的ヒエラルキーを保つための防衛反応だ。
映画=大衆、文学=知性。
この図式に寄りかかることで、自分の位置を安定させる。
だがこの構図が崩壊したのが、まさに現代だ。
SNSでは映画の方が先に語られ、
文学の方が後追いになる。
もはや、「深い」は“どちらが先か”ではなく、
どちらが揺さぶったかの問題なのだ。

それでも私たちは、つい言ってしまう。
「原作の方が深い」。
それはもはや批評ではなく、時代の口癖に近い。
他人の感動を測るための定型文。
自分の位置を守るための小さな鎧。
でも、その鎧を外した瞬間にしか、
作品と本気で出会うことはできない。

「深い」とは、どちらが優れているかではなく、
どちらで傷ついたかということだと思う。
原作で傷つく人もいれば、映画で救われる人もいる。
それぞれの“深さ”は、体験の個数だけ存在する。
深さを比べることに意味はない。
むしろ、比べた瞬間に深さは浅くなる。

だから、「映画化されたら原作の方が深いとか言うのやめてもらっていいですか?」
というのは、ただのツッコミではない。
それは、“感じること”を“評価すること”で上書きしてしまう社会への、
やさしい抗議なのだ。
映画も本も、私たちの中で静かに変化していく。
その変化を、「深い/浅い」で閉じ込めるのはもったいない。

作品に対して、「どちらが深いか」と言いたくなったら、
一度だけ、こう問い直してみたい。
――「私は、どこで沈黙したか?」と。

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読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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