書店にいると、人はなぜあんなにも「運命的」な顔をしてしまうのだろう。
どの棚の前にも、うっすらとした演出が漂っている。
ほんの少し眉をひそめ、指先で背表紙をなぞり、立ち止まる。
その瞬間、内なるナレーションが始まる――「あ、この本に呼ばれた気がする」。
だが正直に言ってしまえば、それ、呼ばれたんじゃなくて見えやすい位置に置かれてるだけなんですよ。
書棚は一種の舞台であり、私たちは無意識のうちにその舞台装置の中で演じている。
照明、紙の匂い、静寂、そして並んだ本の背。
その整然とした秩序が、私たちに「意味があるような気分」を与えてくれる。
マーケティングが演出する神秘、それを「偶然の出会い」と呼びかえて安心しているだけだ。
本に“呼ばれた”のではなく、自分の不安が都合よく物語を求めているだけ。
それでも私は、ついその茶番を愛してしまう。
なぜなら、そこに「無駄な誠実さ」があるからだ。
意味を感じたい、世界とつながりたい、そんな気持ちが、わざわざ書店で立ち止まらせる。
スマホの画面でワンクリックすれば届く時代に、
人はまだ「偶然の出会い」というロマンチックな嘘を必要としている。
それは効率よりも、物語として生きたいという祈りのようなものだ。
書棚の前で“呼ばれた気がした”と言う人を茶化すことは簡単だ。
だがその茶化しは、同時に自分自身にも突き刺さる。
私もまた、何度も“呼ばれた気”になってきた。
たとえば哲学書のコーナーで、見慣れた背表紙に偶然視線が止まる。
「ニーチェか、またお前か」と呟きながら、私は買う。
呼ばれたのではない。逃げ場として選んでいるのだ。
それでも、その「逃げ」は悪くない。
逃げることと考えることは、案外よく似ている。
人は追われるように思索し、追い詰められるように読書する。
だから「呼ばれた」という錯覚には、ある種の救いがある。
それは、“選んでしまった責任”を少し軽くしてくれる。
自分の意志で選んだのではなく、本に呼ばれたのだ――
そう思うことで、失敗しても「仕方なかった」と言える。
そのやさしさが、読書という儀式の裏にある。
だが、やさしさはしばしば滑稽さと隣り合わせだ。
「この本が、今の私に必要だったんだ」と言いながら、
実際には一章も読まないまま積み上げていく。
“積ん読”とはつまり、“呼ばれたフリ”の墓場である。
私たちはそこに、読まれない誠意を丁寧に葬っている。
それでも、墓標のように並ぶ本の背に安堵を覚える。
読まなくても、読もうとした自分がそこにいるから。
それが、現代の読書倫理のかたちなのかもしれない。
思えば、“呼ばれた気がした”という言葉は、
言語としても非常に面白い。
「呼ばれた」という受動の構文の中に、
「気がした」という不確定の自覚がすでに組み込まれている。
つまりこれは、自分が錯覚していることを自覚しながら錯覚している言葉なのだ。
言語のレベルで、すでに人間の誠実なあやまちが露呈している。
この倒錯こそ、私たちが愛してやまない“文化的ポーズ”の正体である。
もちろん、そうした言葉を完全に捨てることはできない。
人間は意味を演出する生き物だからだ。
「呼ばれた」と言いたくなる衝動そのものが、
私たちを本棚へと向かわせている。
つまり、それは無意味を恐れる心の裏返しでもある。
意味のない世界で意味をでっちあげる。
それが文化であり、文学であり、たぶん読書の本質だ。
だから私は、今日もまた“呼ばれたフリ”をする。
書店の奥の静寂の中で、一冊の背をそっと撫でながら、
「この本、たぶん今の自分に必要なんだよな」と呟く。
自分の演技をわかっていながら、やめられない。
なぜならその一瞬だけ、自分の存在が「選ばれた気」になるからだ。
その錯覚の中にだけ、世界との接点がある。
本に呼ばれたフリをして、実は自分が世界を呼んでいる。
もし“呼ばれた気がした”のをやめてしまえば、
読書はただの情報摂取になってしまう。
けれど、呼ばれっぱなしもどうかと思う。
呼ばれるたびに財布が軽くなり、積まれた本が高くなる。
やがて、現実が本棚に埋もれていく。
そのとき、人は初めて気づく。
「呼ばれていたのは、自分の孤独だったのかもしれない」と。
書店は、孤独を言葉に変換する装置だ。
だから、あの空間では人が少しだけ丁寧になる。
誰もが静かに歩き、声を潜め、紙の匂いに集中する。
その静けさの中で、人は“自分が物語の中にいるような気”になる。
だが、それもまた誤解だ。
私たちは物語の外側で、ただ物語を演じているだけ。
その演技の密度こそが、文化を支えている。
たとえば、背表紙に手を伸ばすその瞬間。
あれは知的行為ではなく、儀式的なポーズである。
ページを開くことより、選ぶふりのほうが美しい。
読書とは、読むことそのものよりも、
読む前の期待を愛する行為なのかもしれない。
「呼ばれた気がした」は、その期待のための呪文だ。
あの言葉を口にすることで、人は自分に許可を与える。
“今日もまた、何かに出会えるかもしれない”という希望を。
結局、呼ばれることと、選ぶことの区別などない。
選ぶたびに呼ばれ、呼ばれるたびに選んでいる。
読書とは、そうした往復のなかで自己を形づくる運動だ。
その動きが止まったとき、人は言葉を失う。
だからこそ、「呼ばれた気がした」をやめなくていい。
ただし、その言葉の滑稽さを笑えるうちは。
笑いながら、本の背を撫で、沈黙に耳を傾ける。
それがきっと、いちばん誠実な読書のかたちなのだろう。