「誠実な方が好きです」と言う人は多い。しかし、その「誠実」とは何を指しているのか。私はずっとこの言葉の曖昧さにひっかかってきた。
多くの場合、それは実際には誠実そのものではなく、“誠実そうな印象”を意味している。清潔感があり、話すテンポが良く、笑顔が崩れず、社会的に安定していて、他者を不安にさせない。それが「誠実に見える条件」だ。だが、これは倫理ではなく、演出としての誠実にすぎない。
私たちが「誠実な方」と言うとき、そこにはいつも隠れた“前提条件”がある。いや、むしろ条件のための条件がある。
たとえば、どれほど真面目に考え、相手に敬意をもって接したとしても、滑舌が悪ければ「暗い人」とされる。どれだけ丁寧な言葉を選んでも、服装が地味なら「印象が薄い」とされる。誠実さは倫理的な徳ではなく、可視性のスキルとして計測される時代に変わったのだ。
この構造を私は「条件付き条件」と呼びたい。
つまり、誠実が評価されるためには、まず“誠実を感じてもらうための条件”を満たさねばならない。一次条件としての倫理の上に、二次条件としての社会的演出が重ねられている。
ここではもはや、「善い意思」はカント的な意味では存在しない。むしろ「善く見える意思」が、より高く評価される。
カントは『道徳形而上学の基礎づけ』で、「善意志は、それ自体で善い」と述べた。だが現代社会では、この定義はほとんど成り立たない。
どれほど善い意志をもって行動しても、外見やテンポや経済的条件が整っていなければ、評価されない。つまり「善い意志」は、“受け入れられる外観”という媒介を通らなければ可視化されない。善意は、伝達装置を失ったまま沈んでいく。
私たちはいつの間にか、「誠実であること」よりも、「誠実であるように見えること」に慣れすぎた。そこでは、沈黙や逡巡やためらいが“わかりにくさ”としてマイナスに転じる。思慮深さが“重さ”に、柔らかさが“優柔不断”に翻訳される。
社会の倫理感覚は、いつのまにか「伝わるかどうか」で測られるようになった。伝わらない誠意は、もはや誠意ではない。わかりやすさこそが、現代の“善”の形になった。
この「わかりやすさの暴力」のもとで、人は倫理をプレゼンするようになった。
好感度の高い笑顔、聞き上手な頷き、バランスのとれた謙遜。それらはまるで、倫理のパフォーマンスである。人は「誠実であるように振る舞う」ことを誠実と呼び、「誠実を説明できる人」を信頼する。だが、誠実とは本来、説明できない徳ではなかったか。
真に誠実な人は、しばしば沈黙する。うまく言葉が出てこない。考えすぎてしまう。自分の言葉が相手を傷つけないか、迷ってしまう。そういう逡巡のなかに、誠実の根がある。だが、現代社会の速度は、その“ためらい”を欠陥とみなす。ためらわない人、即答できる人、軽く笑える人が「感じのいい人」になる。
つまり、誠実の不透明性は淘汰される。わかりやすさのために、思索は削られ、沈黙は排除される。倫理的な人ほど、「印象が悪い」という不条理に直面する。
では、私たちはどうすればいいのか。
おそらく、誠実を“条件の外”に置き直すしかない。
誠実とは、「条件を満たすこと」ではなく、「条件から逸脱すること」だ。社会が規定する“印象の正義”から一歩外れ、わかりにくい誠意、説明できない敬意、伝わらない優しさを、それでも持ち続ける勇気。
それは、制度の速度に抗う小さな抵抗であり、倫理の最後の形だと思う。
思えば、性悪説の社会では、人は“悪”を正直者のように扱う。
利己的であることを隠さない人が、「素直で信頼できる」と評される。嘘をつかない自己中心。感情的であることを恐れない率直さ。
この「露悪的誠実」は、予測可能だから安心なのだ。
他方、真の誠実は予測不可能である。何を考えているかわからない。何を望んでいるのかが読めない。その“読めなさ”こそ、誠実の本質だが、現代社会ではそれが不信に変わる。
つまり、悪の透明性が、誠実の不透明性を駆逐する。
誠実が制度に殺される瞬間とは、まさにこのときだ。
“誠実そうな条件”を満たすことが倫理の条件になり、そしてそれを満たせない人は「努力不足」とみなされる。努力とは何か。ここでの努力とは、内面の成熟ではなく、印象の最適化である。
私は、誠実を努力で装う社会に深い不安を覚える。
なぜならそれは、誠意が「形式」に吸収される瞬間だからだ。
形式が誠実を飲み込むとき、倫理は見かけの中に溶解し、空洞化する。人はもう、何を信じていいのか分からなくなる。
だから私は、「誠実な方」という言葉を聞くたびに、少し身構える。
その言葉の裏には、どんな条件が埋め込まれているのか。
それは本当に、誠実という徳への信頼なのか。それとも、「安心して信頼できる印象」への依存なのか。
私は思う。誠実とは、理解されることを前提にしてはいけない。
誠実は、伝わらないものの中でしか成り立たない。
伝わる誠実は、すでに制度の言葉に翻訳されている。
けれど、翻訳されない誠意――それこそが、条件の外に立つ倫理である。
私たちは、誠実を条件から解放しなければならない。
「誠実そう」という記号を脱ぎ捨て、わかりにくく、説明しづらく、誤解されやすい誠意を取り戻すこと。
それは、社会にとって不便で、制度にとって扱いにくい。
だが、それこそが本当の意味での“善意志”の生き残りなのだ。
条件付き条件の時代にあって、
誠実とは、条件を拒む勇気そのもののことである。