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日記
「あなたはプロです」。この一言が、どれほど私の背中から熱を奪ってきたか。私は毎日、本を読み、考え、現場で体当たりしている。夜に線を引き、朝に引き直し、ページの余白に社会のほつれを写し取り、昼休みにメモを清書し、夕方には現場の音と匂いにさらされて、そのすべてをまた書き直す。そうして積み上げた一日の最後に、ふいに降ってくるのがこの呪文だ。「あなたはプロです」。称賛のかたちをした、やる気の消火器。誇りの温度だけ正確に下げる、よく調整された言い回し。私はそれを千回聞いた。高校生のバイトのときから、社会人になっても、部署が変わっても、肩書が増えても、文言は変わらない。金額と権限の差だけが膨張し、言葉の質はその場しのぎのまま据え置かれる。
「プロだからわかるでしょ」「プロなんだから自分で基準つくって」。基準は私に任せるのに、決裁はあなたが握る。責任は私が背負うのに、蜜はあなたが舐める。おあつらえ向きの分業制。私は読み、考え、設計し、実装し、検証し、文言の揺れまで詰める。そのすべての最後に、後出しの評価が君臨する。「それじゃない」「プロなら察してほしい」。ならば最初に言ってほしい。「察してほしい」はテレパシーの科目であって、労働の評価項目ではない。プロ意識という燃料はある。だが燃料はタンクと配管と点火時期が揃って、はじめて力になる。あなたの「プロです」は、タンクに穴を開けておいて「気合で走れ」と言うのに等しい。
私は甘い蜜の話を信じない。甘い蜜は、上から自然に滴るものではない。上はたいてい乾いていて、必要なときだけ現場の汗を蜜だと言い張る。決裁の瞬間だけ糖度計を取り出し、普段は「現場の自律」と呼んで放置する。曖昧な委任、後出しの評価、裁量と責任の非対称。それらを一言で言いくるめる合言葉が「あなたはプロです」だ。この四文字六拍の札を切られると、議論は短縮され、検討は省略され、不足は美徳に変換される。足りない時間はプロ根性、足りない情報はプロの勘、足りない人手はプロの工夫。便利で、速くて、安上がり。その代わりに、私のやる気だけ確実に目減りする。これは経営資源の最適化ではなく、誠意の採掘だ。地下から汲み上げた誠意を、仕様に落とさず口当たりのいい言葉で消費していく。味は甘い。腹持ちは最悪だ。
本を読む。読むことで私は、社会の合言葉の歴史を知る。「自己責任」「仕方ない」「これが現実」。それらと同列に「あなたはプロです」が並ぶ瞬間を、私は嫌というほど見た。合言葉は、責任の矢印を見えない方向へ曲げる装置だ。言葉が回れば回るほど、誰も傷つかず、誰も変わらず、誰かだけが摩耗する。私はその“誰か”だった日を数えきれない。だから、私は意地でも言い返す。「誠意は仕様に落としてから言ってくれ」。目的は何か、成功判定は三つ何か、どのリスクは許容でどこからは不可侵か、優先順位はA>B>Cのどれか、未回答ならBで進むのか。これらを言葉で置くことが、現場の自尊心を守る最低限の衛生だ。合言葉が衛生になった試しはない。衛生は、手を洗う時間と水と石鹸を配るところから始まる。
それでもなお、「プロなら」と言われる。私はプロであることを否定しない。むしろ誇りにしている。誇りは、毎日読むこと、考え続けること、失敗の意味を言語化して次に活かすこと、他人の時間を奪わないこと、嘘をつかないこと、他人の功績を自分の手柄にしないこと。そういった質素な約束の束に宿る。そこに「なんでもやる」や「察してみせる」は含まれない。含めるためには、権限と情報と時間を伴走させてください。それがないとき、あなたの「プロです」は、私の仕事を軽くするどころか、私の誇りを重石に変える。誇りは重くなりすぎると、胸を張れない。
現場で体当たりを続ける日々の中で、私は気づく。最短距離で成果に近づくのは、根性ではなく、合意である。合意のない自律は暴走で、合意のない期待は絞り取りだ。私は今日も、本のページ端に赤ペンで書く。「合言葉を減らせ、合意を増やせ」。その一歩目は、私の口から出るはずのない言葉を、あなたの口から出ないようにすることだ。言い換えは難しくない。「あなたはプロです」のかわりに、「目的はこれ」「成功判定はこれ」「迷ったらA」「17時まで未回答ならBで進む」「この範囲はあなたの裁量、この範囲は私が決裁」。この程度の文を並べるのに、勇気以外の特別な資源は要らない。勇気がないときは、せめて沈黙してほしい。沈黙は時に、最悪の合言葉よりずっとましだ。
私はこれからも読むだろう。読むことで、合言葉の魔術を見破る語彙を増やすために。私はこれからも考えるだろう。考えることで、現場の痛みを測る定規を作るために。私はこれからも体当たりするだろう。体当たりすることで、合意の重さを身体で覚えるために。そのすべての上に、軽々と置かれた札がひとつある。「あなたはプロです」。この札を、私はもう受け取らない。枚数を数えるのもやめた。必要ならば丁寧に返す。「その言い方、やめてもらっていいですか」。そのかわり、私の机の右上には、今日も小さな紙片が一枚ある。目的・判定・期限・権限。これを一緒に書ける人と仕事をする。そのことだけが、私を明日に運ぶ。
