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新・読書日記628(読書日記1968)

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日記

今日は休憩中に小林秀雄の講演音源を聞いた。ブックオフやジュンク堂の棚で何度か見かけた古いシリーズで、通勤リスニングにはちょうどいい長さだ。耳だけで追うせいか、紙で読むよりも言葉の輪郭が強く立ち上がる。小林が最初に投げてきたのは、魂の実在を考えるとき、人はつい「空間」という箱に手を伸ばしてしまう、という指摘だった。位置や形や量に置き換えれば安心できる、そんな知性の習性が私たちには骨の髄まで染み込んでいる。空間なしに存在は認められない――科学的な方法としては筋が通っているが、それを思考の唯一の姿勢だと誤解した途端、世界の手触りはどこか平板になる。小林はそこでベルクソンの名を出す。世界は“どこに”“どれくらい”で裁断できるだけのものではなく、“どう続いてしまうか”――つまり持続の質において生起する、と。量ではなく質、断片ではなく流れ、配置ではなく変調。耳に入ってくるだけの言葉なのに、その対比が身体の姿勢をひねるように働くのが面白かった。

空間に還元するクセは、私にも心当たりがある。痛みを一から十で表そうとして、表した瞬間にこぼれ落ちるニュアンスに気づく。時間の「長さ」を時計で測り切れた気になって、待ちわびる一分と、没頭の一時間がなぜ別物なのかを忘れる。人間関係の複雑さを関係図に描いて満足して、沈黙の呼吸や目線の迷いを図の外に押し出してしまう。空間は便利だ。便利すぎるから、便利が盲点になる。ベルクソンはその盲点の向こう側で、質的な差異が量的な差に置き換えられてしまう過程にブレーキをかけた。小林がそこに頷くのは、彼自身の批評の作法――言葉の手触りを手放さない態度――と地続きなのだろう。

もう一つ、講演の中で印象に残ったのは、科学の限界に触れるくだりだった。おそらく念頭にあるのはカントの『純粋理性批判』で、認識の枠組みが規定する「経験可能性の内側」と、その外側にあるものの差異だ。科学は経験可能性の内側で威力を発揮する。そこでの検証・再現・反証の回路は、まさに現代の生活を作ってきた。けれど、その方法の成功ゆえに、私たちは世界のすべてを同じ回路に通すべきだという気分になりがちだ。検証できないものは語れない、語るべきでない、語る価値がない――この三段論法はすっきりしていて、しかも倫理的に見える。しかし小林は、そこで「無意識心理学」という別の窓を開ける。意識に上らない契機が人間の思考や行為を形づくるなら、可視化・再現の枠を少し緩めないと見えてこないものがある。方法に忠実であることと、方法を唯一化することは同義ではない。講演の語り口は、信仰の勧めではなく、方法の節度の勧めだった。

私は「魂はナンセンス」という断言に昔から違和感がある。もちろん、魂を物理的実体として持ち出し、測定可能量にせよという要求を受けるなら、すぐに頓挫するだろう。でも、ダークマターでさえ正体がわからないまま、観測のズレを埋める仮の名として運用されている。重力もその本質に関しては最終的に決着していない。自然科学の最前線ですら、名前の仮住まいの連続なのだ。ならば、魂という語が、物理仮説ではなく、経験の秩序を壊さないための“説明の作法”として生き延びる余地はあるはずだ。泣くときに胸のあたりが空洞のように感じられ、愛する人を失ったとき時間が撓むように遅くなるあの経験に、「魂などナンセンス」とだけ言って幕を引くのは、言葉の経済としては潔いが、経験の倫理としては乱暴だと思う。

もちろん反論はある。「測れないなら仮説にもならない」「説明力のない言葉を残すのは思考の甘えだ」。たしかに、何でもかんでも“測れない”で免責されるなら、世界はたちまち霧に包まれてしまう。けれども、測定可能性と存在可能性は同じ尺度で測られていない。測れないことは、少なくとも「今の道具では測れない」ということであって、語ってはならないという戒律まで導かない。慎重であることと、沈黙を強いることのあいだに、留保という第三の作法がある。私はそこに居心地の良さを感じる。語りを留保することで、語りの資格を守る。測定を保留することで、測定の権威を守る。魂という語への態度も、まずはその留保の領域で整えればよいのではないか。

考えてみれば、「なぜ私たちがいま生きているのか」という問いに、検証の土俵で勝負を挑むのは難しい。因果をたどれる部分はあるし、統計で描ける傾向もある。しかし“いま”という一点に私が生を受け、あなたが隣にいて、偶然の縫い目がこのような模様を作っていることの不可思議さは、どんなモデルでも余白として残る。余白があるからこそ、私たちは祈り、誓い、後悔し、約束する。余白があるからこそ、文学があり、音楽があり、沈黙が意味を持つ。余白をすべて塗りつぶしてしまうことへの恐れと、余白の名で何でも許してしまうことへの恐れ――この二つの恐れのあいだで、思考の節度は育つのだろう。

小林の講演が面白かったのは、その節度が具体的な口ぶりとして聞こえたからだ。空間に還元できないものを、安易に空間概念で梱包し直さない。計量化できない経験に、計量の物差しだけを押し当てない。科学への不信ではなく、科学の権限を乱用しないという礼儀。信仰の押し売りではなく、語ることの責任に対する作法。耳で聞くと、その作法が呼吸のリズムにまで染みてくる気がする。私は音源を止めて立ち上がるとき、歩幅が半歩だけ変わっていた。世界を測る歩幅ではなく、世界を聴く歩幅。空間の中を移動する速度ではなく、持続の波に身を預ける歩き方。通勤の雑音の中で、そんな錯覚をほんの少しだけ味わった。

だから私は、魂という語を“説明”の座から一段下げ、しかし“撤去”はしないで、机の端に置いておくことにする。ときどき手に取って、埃を払って、場違いなところに置かれていないか確かめる。そういう扱い方が今の自分には合っている。測り得るものへの敬意を失わず、測り得ないものへの敬意を失わないために。方法に忠実であることと、方法に従属することを混同しないために。空間を使いこなしながら、空間に捕らわれないために。さて、私たちはどこまでを科学に委ね、どこからを経験と思索に委ねるのか――その線引きを、今日からどのように自分の生活の中で実験してみるべきだろうか?

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読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

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