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新・読書日記629(読書日記1969)

本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。

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日記

朝の車内は、またしても熱帯の余熱を閉じ込めた箱だった。外の空気は秋のふりをして頬に触れるくせに、車内の温度計だけは別の季節を指さしている。福子『逆さまの迷宮 下』を開くと、ページの紙肌が指先に貼りつき、汗が文中の迷路をわずかににじませる。停車のアナウンスが入り、列車はふっと呼吸をやめた。二十分。車掌の声に含まれる申し訳なさの温度と、天井の風が吐き出すぬるい空気の温度は驚くほど一致している。どうにかならないのか、と毎度思う。コロナ禍の窓全開は、少なくとも風の倫理を持っていた。換気という穏やかな正義は、こうも簡単に忘れられるのだろうか。混雑率に応じた冷房制御だとか、体感値に合わせた送風の学習だとか、技術が言葉だけ先に進んで人間の頸動脈を置き去りにする様子は、朝の車内で最もよく観察できる。私は反射的に本へ逃げ込む。直線距離で進むしかない通勤時間に、迷宮というねじれを持ち込むために。

読み進めるほどに、迷宮は出口の形をとらない。むしろ、既知の配置が少しずつ鈍くズレていく、そのズレの触感が読書の報酬になっていく。通路が通路であることをやめ、袋小路がひらけ、順路の矢印が意味を失い、代わりに足裏の感覚だけが地図になる。通勤電車は逆に、足裏を床に貼り付け、ルートを一本化し、世界をトンネルにしてしまう。だがこの単線の上で読みを深めると、文字の側が勝手に分岐をつくる。物語の文脈が一瞬だけ速度を落とし、視点が反転する。その瞬間、世界はわずかに二重写しになり、私は一直線の朝から滑り出す。ページが増え、気温は下がらない。身体は汗の現実に拘束されるが、心は汗の輪郭をなぞることをやめない。私はこの拘束の中に自由を見つけたいのだろう。自由とは、冷房の設定温度ではなく、暑さの中で何に賭けるかの選択なのだから。

そしてふと周囲を見る。スマホを叩く音が、小さな虫の羽音のように車内に敷き詰められている。カタカタという音は、情報が流入している合図ではなく、覚醒が小刻みに消費されている合図だ。みな、朝の眠気を画面の光で焼き切ろうとして、眠気の残骸だけを増やしていく。寝不足を嘆き、目の下の隈を他人事みたいに扱いながら、照度を上げ、通知を解放し、ついでに自尊心まで時折解放してしまう。私はその音の中で、わずかに羞恥を覚える。読書という古い作法が、ここでは奇妙に高慢に見えるのではないか、と。しかし同時に、私は自分のリスクを小さく数える。画面は瞬間の体験を無限に供給するが、リスクの持続を供給しない。そこに、今日の夜に読んだタレブの一節がはっきり刺さる。「身銭を切る」とは、時間に対して負債を作ること、そしてその返済計画を自分の名義で引き受けることだ。VRも動画も、瞬間的に経験の格好をさせるが、翌朝の身体に残る負荷や、判断の責任としての“あと味”を、十分に請け負ってはくれない。たとえ最先端の追体験が精緻に組まれていても、私が明日も明後日も利息を払い続ける種類の重みは、そこには薄い。覚醒の光は貸し出し可能だが、リスクの影は分割払いにできない。私は本を閉じるたび、支払い明細の欄外に小さな署名をする。今日も明日も、私の名義で。

帰路、タレブを少しだけ開く。昼間に読んだ迷宮の手触りが、ここでも別の角度で噛み合う。迷宮の出口を早く知りたがる心と、リスクを回避しようとする反射は、実は同じ筋肉でできているのではないか。出口は知識の名をしてやって来る。だが知識が出口の形ばかりをしているとき、私はそこで支払うべき“長期の重み”から逃げてしまう。読むとは、知らなかった事実の在庫を増やすことではなく、時間がかかる判断を、時間がかかるまま引き受ける練習なのだろう。迷宮は私に、堂々と迷う権利と、その迷いに利息がつく現実を渡してくる。だから私は、ページをめくることに「賭け」を感じる。筋トレのような努力とは別に、賭けには品の良い恐れがある。外れるかもしれない、という静かな不安。読了しても報われないかもしれない、という片腹痛い予感。その不安が、読書の奥行きを一段増やす。VRはここでたぶん不利だ。要点へ最短で案内する親切が、恐れの小道具を没収してしまうからだ。

それにしても朝の暑さである。JRの冷房は「誰も責任を取らずに万人をがまんさせる」という教育的配慮に満ちている。私はつい毒づきたくなるが、毒づきは責任の代理体験でしかない。では、私にできることは何か。席取りの最適化や扇子の角度という微小な技術だけでなく、暑さの機嫌をとりながら読みを続けるための、可逆的で小さな仕組みを増やすことだ。例えば、車内に入った最初の二駅分は“読む前に書く”。気温が高いほど、メモの一打目を先に打ち込む。汗は集中を妨げるが、発火点はむしろ早く訪れる。その火種でメモを炙り、そこに読書を後から流し込む。順序を一度だけ逆転させる——これもまた、私なりの“逆さまの迷宮”である。暑さが私の自由を奪うなら、私は順序を反転して、奪われる前に自由を支出する。支払うのは、私の注意の残高だ。残高は多くないが、名義は私だ。

周囲のスマホは相変わらず軽快に音を立てる。人々は自分の朝を活性化させながら、その夜の眠気を先回りで増やしている。睡眠不足は、結果ではなく設計だ。青い光、引っ張り続けるタイムライン、驚くために最適化された通知の粒度。覚醒とは、溜めるものではなく、細切れにして撒くものに変えられた。私はその列に加わらない、と宣言するほど強くはないが、列の端で身銭を少しだけ違う方向へ落としてみることはできる。画面をグレースケールにする、通知を朝一時間だけ黙らせる、読むアプリを一つに絞る、降りる二駅前で本を閉じ、三行だけ明日に賭ける。こうした小技は、倫理ではなく習慣の範疇にある。だが習慣は、最小のリスク引受単位だ。小さく支払うことを毎日続けるうちに、私の名義は徐々に信用を獲得する。信用とは、明日の自分が今日の私に肩代わりを申し出る確率が上がることだ。私はその確率に利息をつけたい。だから、今日も明日も、私は身銭を切る。

読書とは、涼しい部屋で静かに賢くなるための行為ではない。暑い車内で、周囲のカタカタに囲まれながら、自分が何に賭けるかを更新し続ける行為だ。迷宮の出口が見えなくても、歩いた分だけ足裏が地図になっていく。タレブがいう“経験の代替不可能性”は、大仰な哲学ではなく、明日の眠気を誰が引き受けるかという極端に生活的な問題の別名だ。VRがどれほど鮮明に再現しようとも、明日の体温や、帰宅後の後悔や、財布の重さや、無言の選択の積み重ねは、借りられない。私の身体は、私のローン会社だ。支払い遅延の通知は、目の乾きや、舌の渇きや、ため息の長さとして届く。だから私は、読書という遅い支払いを選ぶ。遅く支払うと、遅く利息が戻ってくる。戻ってきた利息は、理解とか洞察とか呼ばれることがあるが、実際はもっと素朴なものだ。自分の選択にうっすらと責任の影が差し、その影の輪郭が前よりもはっきり見える、というだけのことだ。

今日も、帰宅してからページの端に小さな折り目をつけ、三行のメモを書いた。明日の朝、同じ暑さと同じカタカタが待っているだろう。JRの設定温度は変わらないかもしれないし、世の通知はますます緻密に私の脈拍を測ってくるだろう。それでも私は、迷宮の鈍いズレを愛したい。直線の通勤にねじれを、瞬間の快に持続の重さを、画面の覚醒に眠気の尊厳を——わずかでも、支払っては取り返す。その反復が、私のささやかな倫理になる。

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こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

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