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ナシーム・ニコラス・タレブ『身銭を切れ』読了+読書日記642(読書日記1982)

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感想・日記

有休の一日を、ここまできっちり「読書と身銭」で埋め尽くしたことは、あまりなかったかもしれない。朝からトルストイとタレブを読み、午後は障害福祉の勉強と島田雅彦を少し。合間には東急ハンズ系の売り場で、USBポート付き電源タップとアルミ製PCスタンドを買った。数千円の買い物にすぎないのに、家に戻って設置してみると、たしかにライフが一段階だけ豊かになった気がする。「とりあえず椅子に座りさえすれば、あとはカタカタ書ける」。その感覚が手に入ったことが、今日いちばんの収穫かもしれない。

タレブの『身銭を切れ』は、そんな今日にようやく読み終えた。購入からおよそ二か月、500ページ弱をちまちま読み進めてきたので、読了にはそれなりの時間がかかった。本の厚みもそうだが、一章ごとに立ち止まって、自分の生活や仕事、倫理の話にどう引き寄せて考えるかを反芻してしまうので、どうしてもスピードは出ない。むしろ「早く読み終えないほうがいい本」というものがあるとすれば、この一冊はまさにそういう種類の本だった。

この本でまず僕の足を止めたのは、「合理性」の再定義である。タレブはこう書く。

「私が現実的、経験的、数学的にいって厳密だと思う唯一の合理性の定義は、次のようなものだ。「生存に役立つものは合理的である」。現代の似非心理学者たちの理論とは異なり、この定義は古典的な考え方に通ずる。「個人、集団、部族、あるいは全体の生存を妨げるものは非合理的である」というのが私の考えだ。」(P380)

合理性を「生存に役立つかどうか」で測る、というこのあまりにシンプルな基準を読むと、自分が日々どんなものに時間とお金を投じているのか、嫌でも点検させられる。仕事、読書、人間関係、ささやかな贅沢──それらは本当に、自分や、自分が属している小さな共同体の「生存」に寄与しているのか。それとも、どこかで「形式的な合理性」に酔っているだけで、システム全体から見ればむしろ自分を削っているのか。

さらにタレブは、信念についてこう釘を刺す。

「あるものをどれくらい本気で”信じて”いるかは、その人がその信念を貫くために冒すリスクを見ればわかる。」(P379)

この一文を読んだとき、僕の頭にまず浮かんだのは、壮大な宗教論でも政治信条でもなく、「読書」と「働き方」のことだった。自分は「読書は大事だ」「倫理は大事だ」「制度の外側の声を拾いたい」とさんざん言ってきたつもりだが、そのために実際どれくらいのリスクを引き受けているだろうか。せいぜい有休を一日使って、厚い本を読み終え、障害福祉の本を開き、東急ハンズで数千円を投じて執筆環境を整えた程度で、胸を張って「身銭を切っている」と言えるのか。タレブに見せたら「まだまだ甘い」と笑われそうだが、それでも今日の有休には、ほんの少しだけ、信念とリスクの針が重なった手応えがあった。

タレブは合理性について、さらに手を緩めない。

「合理性とは、言葉でははっきりと説明できる要因によって決まるのではない。生存に役立つもの、破滅を防ぐものだけが、合理的なのだ。なぜか?リンディに関する議論で見たとおりだ。起こることのすべてが、理由があって起こるわけではない。だが、生き残るものはすべて、理由があって生き残る。要するに、合理性とはリスク管理なのだ。以上。」(P383)

「以上。」とばっさり切り捨てるところに、この人の怖さと清々しさが同居している。ここまで言い切られると、「合理性=リスク管理」という定義を、日常生活の細部にまで持ち込んでみたくなる。今日の僕の数千円の出費──USBタップとアルミ製PCスタンド──は、生存に役立つリスク管理だったのだろうか、と。

実際、使い始めてみると、これは思っていた以上に「破滅を遠ざける」投資だった。ケーブルの抜き差しをするたびに腰をひねり、変な姿勢で作業していたあの時間が消えた。PCスタンドのおかげで、首や肩にかかる負担がほんの少しだけ軽くなった。物理的な疲労が減ると、「もう今日はいいや」とノートPCを閉じてしまう瞬間が、わずかに先送りされる。おそらく僕の「書き続けるシステム」の寿命は、今日の数千円によって、ほんの少しだけ延びたのだ。

「合理性」と「生存」をめぐるこのタレブの定義は、障害福祉の勉強をしているときにも、じわじわ効いてくる。福祉や就労支援の領域では、「統計的には」「確率的には」といった言葉がよく飛び交う。だがタレブは、確率と時間の関係について、こう釘を刺す。

「観測された過去の確率を未来の過程へとそのまま適用できない場合、その現状はエルゴード的でないとみなされる。」(P391)

過去のデータから計算された「平均的なクライアント像」を、そのまま目の前の一人ひとりに適用することの危うさは、福祉に関わる人なら誰もが薄々知っている。その直感を、タレブはエルゴード性という概念で言語化する。個人の人生は、統計表の一行には還元されない。時間を通じて破滅しないためのルートは、人の数だけ、環境の数だけ、複雑に枝分かれしている。

さらにタレブは言う。

「私は、リスク回避なんてものは存在しないと思う。私たちが観測しているのは、単純に、エルゴード性の残滓だ。」(P395)

「リスク回避」しているつもりで取っている行動が、実は別の種類のリスクを増やしている、ということは日常にもいくらでもある。例えば、制度の側にとっての「リスク回避」が、当事者にとっての「選択肢の喪失」になってしまうとき。あるいは、個人が自分の生を守るために選んだ「働き方のセーフティネット」が、長期的には身体や精神を削る方向に働いてしまうとき。そのねじれを、単純な「安全志向」とか「慎重すぎる性格」といった心理学的ラベルではなく、エルゴード性の問題として見直す視点を、タレブから借りることができる。

そんなことを考えながら本を閉じ、僕は午後、書店で島田雅彦の『ミイラになるまで』を手に取った。もちろん『パンとサーカス』は既読で、その反骨精神には勝手に同盟意識すら感じている。文庫を開いて最初に読んだ短編は「断食少年」。タイトルからして、カフカの「断食芸人」を意識しているのは明らかで、「食いたいものがない」という設定も、ほとんど引用に近いほど重なっている。

カフカの断食芸人も、島田の断食少年も、「食べないこと」を通じて、「この世界に自分の欲望を預けられる場所が見つからない」という感覚を極端な形で表現している。食べたいものがない、というのは単に偏食の話ではなく、「この社会が差し出してくるパンとサーカスのどれにも、自分の身銭を切りたくない」という拒否の表明だ。そう考えると、タレブの「身銭を切れ」と島田雅彦の反骨精神は、別の角度から同じ問いを照らしているようにも見える。何に対してなら、本気でリスクを負ってもいいと思えるのか。どの価値に対してなら、自分の時間や身体を賭けてもいいと感じられるのか。

有休の一日を振り返ると、僕は実にちまちまとした賭けを繰り返していた。タレブに二か月弱を投じ、障害福祉の本を開き、島田雅彦を一冊追加で買い、USBタップとPCスタンドに数千円を払った。世間の尺度から見れば、どれも「投資」というには規模が小さいし、リターンも不透明だ。だがタレブ風に言うなら、これらはすべて「自分のシステムが破滅しないための微調整」なのだと思う。仕事や社会にすり減らされてミイラになる前に、自分のペースで読書し、考え、書くための余白を確保する。その余白づくりのために、身銭を切る。

『身銭を切れ』の最後で、タレブはこう言い切る。

「合理性とはシステムの破滅を防ぐことである。」(P405)

この一文は、本の締めくくりであると同時に、読者一人ひとりに投げられた問いでもある。あなたのシステムとは何か。そのシステムは、何によって破滅しうるのか。そして、今日あなたが取った行動は、その破滅をほんの一ミリでも遠ざける方向に働いていただろうか。

USBタップとPCスタンドで整えた机に向かいながら、僕はその問いを、自分の読書日記にも重ねてみる。二か月かけて読み終えたタレブの厚い本も、カフカに応答する島田雅彦の断食少年も、障害福祉の本のページも、すべては「破滅を防ぐ合理性」というテーマの周りを回っているように見える。そう考えると、有休の一日を読書と勉強とちょっとした買い物に捧げたことにも、ほんのわずかながら必然性が与えられる気がするのだが──果たして僕は、今日という一日を使って、自分のどんなシステムを、どれくらい本気で守ろうとしていたのだろうか。

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