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日記
通勤電車の揺れのリズムに身を任せながら、タレブ『まぐれ』を開く。朝の車内はいつも少し湿っている。人の気配と無言の焦りと、まだ目覚めきらない身体の重さが、低くたまりこんでいる。こういう環境で読むタレブは、なぜか妙に刺さる。彼が語る「運」と「実力」の境界線の曖昧さは、満員電車でぎゅうぎゅうに押し込められている人間の「偶然性」とも重なる。今日この時間にここにいるのだって、偶然の積み重ねにすぎない。そう思いながらページを追っていると、通勤という機械的な反復に、ほんの少しだけ意味の影が射す。
昼が過ぎ、帰宅の電車で再び本を開いたとき、今度はトルストイ『復活 下』がそこにある。タレブの皮肉とトルストイの道徳的重力は、方向としてはまったく別ベクトルだが、その落差がむしろ心地よい。ネフリュードフの懺悔と救済の旅は、読むたびに「人間の責任とは何か」を問い直してくる。タレブが偶然の力を世界の根に据えるのだとすれば、トルストイは「それでもなお思考し、決断するのは人間だ」と言う。この二冊を一日のうちに読むのは、まるで片方の足が沼に沈み、もう片方が石畳の上にあるような、奇妙だが安定した立ち方をしているような感覚だった。
帰りは久しぶりにブックオフに寄った。店内に入った瞬間の、あの少し色あせた照明のぬくもりと、紙の乾いた匂いを吸い込む。やはり棚は日々、微妙に新陳代謝している。ほんの数日来ないだけで、知らない顔の本が平気な顔をして並んでいる。逆に「お前まだ売れてねえのかよ」とツッコミを入れたくなる本も、しぶとく生き残っている。売れ残り続ける本のその頑固さを見ていると、人間より生命力があるのかもしれないなと思う。
棚を徘徊しつつ、手に取るだけ手に取り、立ち読みし、また棚に戻す。「日本よ大丈夫か」系の本をちらっと開いたが、タレブの『まぐれ』を読んだ直後の頭は、こうした言説にまったく反応しなくなっていた。誰かが上空から警告するようなトーンの書籍に対して、タレブ的懐疑のフィルターがかかってしまう。著者の肩書きの立派さと、その主張の妥当性が、もはやすっきりとは連動して見えない。むしろ「肩書きによって賢さを証明しようとする人の危うさ」をタレブに読まされた後では、そうした本の断定調の語りがどうしても空々しく聞こえてしまう。
結局、一通りまわり、三冊だけ購入した。何を買ったかは秘密だが、「これは当たりだな」と感じる本を久しぶりに発見した。安価な中古本の棚で思わぬ掘り出し物と遭遇する瞬間は、宝探しに近い。偶然がもたらす小さな幸福。その偶然を喜べる自分を、タレブは「まぐれをまぐれとして受け取る技術」と呼ぶのかもしれない。
帰る途中、ふと三連休どう過ごすかを考える。特に予定があるわけではない。ただ、読み残した本の山と、書き散らしたメモの断片たちが、そろそろ「整理してくれ」と静かに訴えている。書きたい文章も、頭の中の片隅でざわついている。連休にすべてを片付けるつもりはないけれど、少しは手をつけたい。そんなことをぼんやり考えつつ家に着いた。
帰宅すると、まず昨日買ったベッドサイドランプを点ける。あの柔らかい光に包まれると、ブルーライトから距離を置けるのがわかる。蛍光灯の白さから逃れ、スマホの刺激から逃れ、ただ本と自分の影だけが残る環境をつくる。それだけで世界がすこし静かになり、呼吸がちゃんと自分のものに戻ってくる。
今日はやけに咳き込む人が多かった。電車でも職場でも、誰かがゴホゴホしていた。季節柄なのか、睡眠不足なのか、体調を崩す気配が周囲に満ちているようにさえ感じた。睡眠の質がどれほど免疫に影響するのか、ふと気になる。ひとりひとりの体調の波が、社会全体の小さな揺らぎとなって可視化される瞬間がある。そういうものも含めて、人の集まる場所はつねに小さな「確率分布」をつくっているのだろう。
そう考えると、今日という一日もまた、偶然の連続だった。読んだ本も、立ち寄った店も、買った三冊も、ランプの明かりも、他人の咳払いも、すべてが「意図と偶然の混成物」として自分の中で意味をつくりあげている。そして奇妙なことに、こうして日記に書きつけることで、偶然は偶然でなくなる。タレブの理屈からすれば、私はまた「語りの罠」に落ちているのかもしれない。けれど、語らずにいられないのが人間だ。タレブを読んでも、トルストイを読んでも、それだけは変わらない。
本棚を眺めながら、今日買った三冊の存在を、まだ明かさずにおこうと思う。秘密にしておくことで本との距離が少し縮まることもある。秘密は、読書の密度を高める。明かさないという選択もまた、読書という営みの一部なのだ。
さて、三連休はどうしようか。偶然に任せて過ごすのもいいし、計画的に読み込むのもいい。タレブ的にいえば、どちらに転んでも世界は「まぐれ」に満ちている。だからこそ、私は今日も本を開く。偶然を受け取り、偶然を物語り、偶然の中に自分の足場を見つける。その行為自体が、読書の醍醐味ではないだろうか──と、問いかけつつ一日を終える。
