■株式会社岩波書店
公式HP:https://www.iwanami.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho
■株式会社新潮社
公式HP:https://www.shinchosha.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/SHINCHOSHA_PR?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
■株式会社早川書房
公式HP:https://www.hayakawa-online.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Hayakawashobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日記
今日は一日じゅう、頭のどこかにフラクタルの模様が貼りついていた日である。マンデルブロ『フラクタリスト』を読んでいると、ページの文字を追っているはずなのに、意識の底であの無限に細部が立ち上がってくる図形が、じわじわと広がっていく。午前も午後も合わせて、体感では読書時間の七割くらいをこの本に捧げていたように思う。数式や図版の「分かる/分からない」の境界を行き来しながら、「世界はこんなにも粗雑で、しかしどこまでも自己相似的な揺らぎに満ちているのか」と、はっきりとした理解とも無理解とも言えない驚きの中に浸っていた一日である。
その合間の小休憩の時間に手に取ったのが、トルストイ『人生論』とエピクテトス『人生講義 上』であった。フラクタルと人生論という取り合わせは、冷静に考えるとかなり奇妙である。カオスとフラクタルで世界の「かたち」について考えたと思えば、その数ページ後には、人生の意味や善き生き方について、ロシアの文豪とローマ帝政期のストア派哲学者に説教されることになる。しかし、この一見脈絡のない読み合わせが、自分の中では少しずつ一本の筋でつながり始めている感覚がある。世界の複雑さをどう受け止めるかという問題と、自分の人生をどう引き受けるかという問題は、本来それほど遠く離れていないのだ、と。
最近の読書の方針として、「可能な限り、自分にとって都合の悪い考え方と向き合う」ことを、意識的にやろうとし始めている。振り返ってみると、二十代のころの自分には、明確な判断基準がなかった。そのため、とりあえず信頼の置ける出版社、信頼の置ける著者、評価の定まった古典だけを読み続けてきた。そうした選び方は、ある意味では「正攻法」である。他人に勧めても恥ずかしくない本、権威によってある程度保証された本だけを読み進めていけば、少なくとも妙な陰謀論や危険思想に足を取られることはない。その程度の防御線としては、たしかに機能する。
しかし、そのやり方を続けると、どうしても自分の言葉が育たない。自分よりはるかに賢く、徹底して考え抜いた先人たちの言葉に囲まれていると、いつしか「それらしい言い回し」だけが増え、中身は他人の思想の寄せ集めでしかなくなっていく。二十代の自分は、今振り返れば、かなり教条主義的な読書をしていたのではないかと思う。ある考えを「正しい」といったん信じてしまえば、その周囲に自分の世界観を固めてしまうほうが生きやすい。異論や違和感はノイズとして切り捨ててしまえばいい。そうすれば「自分はまちがっていない」という安心感が手に入る。その代わりに、内側で何かが痩せていくことには、なかなか気づけない。
ただ、さすがにもう、そうした時期は終わりにしてよい年齢になってきたはずである。そろそろ、自分の人生を自分の言葉で語らなければならない。そのときに必要なのは、むしろ「自分の言葉を揺さぶってくる他人の言葉」である。耳ざわりのよい名言や、整いすぎた人生訓だけではなく、「それはちょっと違うのではないか」と思わされる価値観や、自分の倫理観と微妙に噛み合わない主張と、正面から向き合ってみること。その格闘の中でしか育たない何かが、たしかにある。
このところ、自分の中のバイアスをできるだけ意識化し、本当の意味で「多様性のある思考」を自分の内側に招き入れたいと考えるようになってきた。ここでいう多様性とは、単に「いろいろな立場の人の意見を並べて、平等に扱いましょう」という種類の、きれいに整ったスローガンではない。むしろ、自分が本能的に拒否したくなるタイプの考え方、自分の弱点を正確に突いてくる主張、自分の人生の前提そのものを揺さぶってくる視点、そうしたものをあえて自分の中に通過させてみることである。そのうえで、「それでも違う」と言えるのか、あるいはどこか一部分だけでも取り込めるのか。そういう地味で面倒な試行錯誤こそが、いまの自分にとっての「思考の多様性」である。
ようやく、自分の中に一種の「免疫」のようなものができてきたのかもしれない、とも思う。免疫がないまま文学や思想に触れると、たとえば若いころにゲーテ『ウェルテルの悩み』を読んで、その激情と絶望にそのまま呑み込まれてしまう危険がある。文学や思想には、たしかに「危険思想」の側面がある。読む側に基礎体力がなければ、そのまま模倣的な行動へと滑り落ちる可能性を否定できない。
この点については、執行草舟の「毒をくらえ」的な思想に、ずいぶん助けられたと感じている。毒を完全に避けて安全圏だけに身を置くのではなく、適切な量の毒を、適切なタイミングで取り込み、そのなかで自分の免疫を育てるという発想である。ただ、考えてみれば、自分が執行草舟の本を手に取るところまで来られたのは、それ以前にある程度の読書の土台を築いていたからでもあるのだろう。
執行草舟の本を読んで「根拠がない」と切り捨てる人もいる。その反応自体は、ある意味で自然である。しかし、それはその人が悪いというよりも、「そのような言葉を受け取れるだけの土台」をまだ持ち得ていないということなのだと、自分は感じている。ある種の思想や言葉は、こちら側の準備が整っていなければ、ただの暴論や感情論にしか見えない。逆に、自分の側にある程度の土台ができてくると、そのラディカルな表現の奥に潜む切実さや誠実さが、すこしずつ透けて見えるようになる。
今日の読書は、その「土台」と「毒」の関係を、あらためてなぞり直す時間でもあった。そしてここまで書いてきたことは、じつはトルストイ『人生論』を読んだときに覚えた、あの微妙な温度差の感覚への伏線である。トルストイの人生論は、若いころにはそのまっすぐさに救われた面があった。しかし、今の自分には、彼の道徳的な鋭さや宗教的な断固たる感じが、少し別方向に「とがっている」ように見え始めている。
トルストイの言葉には、たしかに力がある。ただ、その力強さゆえに、人間の弱さや逡巡、みっともない妥協や、どうしても拭い去れない迷いといったものを、ナイフで削ぎ落とすように切り捨ててしまうところがあるように思えてならない。言い換えれば、トルストイは「あるべき人生」を語ることには卓越しているが、「どうしてもそのように生きられない人間の現実」を抱え込むための余白を、あえて排除しているようにも見えるのである。
一方で、エピクテトス『人生講義』に触れているときに感じるのは、別種の厳しさである。こちらも人生の生き方を説いているのだが、そのなかには不思議な抽象性と余白がある。哲学者である以上当然ではあるのだが、エピクテトスの語る「自分でコントロールできるものと、できないものを区別せよ」というよく知られたテーゼには、トルストイの道徳的激情とは異なる、静かで沈潜した深みがある。現実の人間の弱さを前提にしたうえで、そのなかでどこまで意志を鍛えうるかというところから話を始めているため、「この通りには生きられない」と突き放される感じが薄いのである。
その意味で、いまの自分にはエピクテトスの人生論のほうが、より哲学的で、より深いものとして響いている。人生を上から裁断するのではなく、人間という存在の条件を丁寧になぞり、そのうえで「できること」と「できないこと」を控えめに差し出してくる態度に、強く惹かれている。本来なら、今の段階ではエピクテトスを集中的に読み進めるほうが、思考の訓練としては効率的なのかもしれない。
それでもあえてトルストイを併読しているのは、まさに最初に書いた「自分にとって都合の悪い考え方」に、意識的に触れていたいからである。自分の感覚とぴったり重なる思想だけを集めて読んでいると、やがて「心地よい閉鎖空間」ができる。その内部で自家中毒的に思考を回していても、それなりに幸福ではいられるだろう。しかし、そのうち、自分の言葉が内側からやせ細っていくのではないかという不安が、どうしても消えない。
トルストイの人生論は、今の自分にとって、少し居心地の悪い本である。価値観の方向性も、人生観の射程も、どこかでズレている。そのズレを理由に本棚の奥へ追いやることもできるが、あえて今日のような日曜日に、そのズレをしっかり味わいながら読み進める時間をとってみる。そうすることで、「自分はなぜこの言葉に違和感を覚えるのか」「どこまでは共感できて、どこから先は受け入れがたいのか」といった、自分自身への問いが、少しずつ輪郭を帯びてくるように思う。
マンデルブロのフラクタルは、単純な数式の反復から、予想もつかない複雑な模様を生み出す。同じように、自分の読書人生も、こうした「反復」によって、どこかで思いもよらない形を描き始めているのかもしれない。信頼できる本だけを読むという守りの姿勢、少量の毒を取り込んで免疫を育てるという攻めの姿勢、自分と合わない価値観の本をあえて読み継ぐという訓練。そのどれもが単独では偏りでしかないが、長い時間軸で見れば、自己相似的に繰り返されるパターンとして、自分という存在の輪郭を縁どっている。
トルストイに反発し、エピクテトスにうなずき、執行草舟に煽られ、マンデルブロの図形に目を凝らす──そうした読書の軌跡のすべてが、どこかで「読書梟」という一つのフラクタルな形をつくりつつあるのではないか。そんなことを考えながら本を閉じて、今日の読書日記をここまで書きつけた。さて、これから先の読書人生のなかで、自分はどれだけ意識的に「都合の悪い本」と付き合い続けることができるのであろうか。
