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日記
今日は通勤中も帰宅時間も、ひらすらトルストイ『復活 下』を読んでいた。カーネマン『ファスト&スロー 上』をうっかり鞄に入れ忘れ、乗車してからその不在に気づいたときにはもうどうにもならなかった。仕方なく、というとトルストイに失礼だが、手元にあった『復活』を開いてみると、長い物語が少しずつ時を重ねていく感覚が、今日はいつも以上にはっきりと身体に入ってきた。ページを繰るごとに、物語がこちらの一日と歩調を合わせてゆっくり進んでいく。その「遅さ」自体が、結果的にはかなりの読み応えになってくれたので、忘れ物も含めて結果オーライであると自分に言い聞かせている。
職場では、そんな悠長なことを言っていられない一日であった。業務は多忙を極め、朝から頭をフル回転させてタスクをさばき続けた。気づけば一つの案件が終わるころには次の案件の締切が顔を出しており、その向こうにはさらに別の仕事がひしめいている。さながら仕事版テトリスである。落ちてくるブロックの速度が日々上がっているせいか、タイピングのスピードだけは確実に向上している実感がある。キーボードを叩く指が勝手に走り、頭で考えるより先に文章が出ていく瞬間も増えてきた。それが良いことなのかどうかはわからないが、少なくとも「処理能力」という一点だけを見れば、鍛えられているのは間違いないのだろう。
ただ、仕事を片付ければ片付けるほど、疑問や問いはむしろ増えていく。なぜこの業務フローはこうなっているのか、本当にこの資料は誰かの判断に役立っているのか、そもそもこの形式は適切なのか。そうした問いを抱えきれなくなっているので、なんとかAIサポートの整備を強化しようとしているところである。いまは関連資料や過去の議事録、社内で飛び交ってきた情報をAIにひたすら食わせている段階だ。AIというのは、遠目に眺めていると「なんでも答えてくれる無敵の存在」のように見えるが、実務で本当に汎用的に使えるようにするまでには想像以上の試行錯誤が要る。人間の側が問い方を調整し、前提を整理し、例外だらけの現場の事情を一つひとつ教え込んでいかねばならない。その「汎用化までの作業」をAI自身が引き受けるようになって初めて、人間の労働時間は本格的に縮んでいくのだろう。だが、その未来はまだ、まだまだ、まだまだ先の話であると感じている。
そんなことを考えつつも、仕事の合間や帰宅後には、まったく別の方向から自分の思考を揺さぶってくる本を開いてしまう。執行草舟の本について、「根拠がうすい」と言ってあまり感銘を受けなかったフォロワーがいる。理屈としてはもっともであるし、そういう反応が出てくるのはむしろ健全なのだろうと思う。少なくとも、その人なりの「自分の軸」ができている証拠ではある。欲も悪くもぶれない軸が、時に頑固さとして表に出てしまうのだろう。宮台真司の言う「感染」の比喩を借りれば、中年以降の人間には、もはや容易には感染が起こらないのかもしれない。価値観の免疫システムが強固になりすぎて、新しいウイルスの侵入を片っ端からブロックしてしまう。しかし、私自身は執行草舟にあっさり感染してしまった側である。だからこそ、定期的に読み返さざるをえないのだと思う。
今日は、日本は「不合理であるほうが合理的になれる」という逆説について語った講演を読んだ。タレブが合理性の定義を「全人類にとって生存を可能にするもの」といった方向でまとめていたが、その定義と執行の議論は不思議なところで重なってくる。生存可能性という観点から眺めると、教科書的な合理性が必ずしも合理的ではない、という当たり前のようでいて見逃されがちな事実が浮かび上がる。むしろ日本社会の場合、「合理的になればなるほど、ゆっくり崩壊に向かっていく」という皮肉な構図さえ見えてくる。書きながら改めて気づくのだが、これはかなりどんぴしゃな逆説である。日本は戦後、アメリカナイズされ、西洋的な合理性を輸入してしまったがゆえに、かつて社会を支えていた「不合理な部分」がどんどん削られてきた。不合理な親、頑固おやじ、雷おやじといった存在は、その象徴のようなものだろう。理屈に合わない怒りや、説明不能な叱責のなかに、実は共同体を守るための直感や、言語化されていないルールが埋め込まれていたのではないか。
もちろん、暴力や理不尽を美化するつもりはない。ただ、「すべてを合理的に説明可能にしようとする態度」そのものが、社会から耐久性やしぶとさを奪ってしまう面があるのではないかという疑念は拭えない。日本から「不合理なおやじ」が姿を消すと同時に、制度も職場も家庭も、どこか薄く、壊れやすくなっていったように感じるのは気のせいだろうか。少なくとも、合理性という名のもとに導入された制度や評価基準が、人間の側の不合理さや曖昧さを受け止める余白を削り取ってきたことだけは確かであると思う。執行草舟が強調するのは、おそらくその「余白」を守ろうとする直感であり、それゆえに理屈好きの人から見れば「根拠がうすい」と感じられてしまうのだろう。
一方で、タレブの本を読んだ影響もあって、私は最近、確率論や統計の知識をもう一度きちんと身につけ直したいという気持ちを強くしている。日本の未来や自分の仕事について、本当に不快なレベルで向き合おうとするなら、主観的な感覚だけではなく、数字や分布やリスクの偏りをある程度は読めるようになっておく必要がある。快適な範囲で数字を眺めていても、結局は自分に都合の良いストーリーだけを信じてしまう。そうではなく、「見たくないデータ」や「信じたくない確率」ときちんと対面するための技術として、確率論や統計を学び直したいのだ。不合理さを肯定することと、数理的な思考を捨て去ることは、決して同じではない。むしろ、不合理さもまた一種の確率分布として捉え直すことで、ようやく見えてくる景色もあるのではないか。
考えてみれば、通勤時間というのは、私にとって数少ない「長さ」を取り戻すための時間である。ホームに並び、電車に押し込まれ、同じ景色のトンネルや高架を毎日往復していると、時間は一瞬で溶けてしまう。その溶けてしまいがちな時間のなかに、トルストイの長大な一文一文を流し込むと、世界の密度がほんの少しだけ変わる。登場人物たちの逡巡や後悔や決意が、自分の一日の細かな感情とゆっくり干渉し始めるのだ。物語の時間と生活の時間が干渉し、どちらも少しだけ厚みを増す。その厚みを感じ取れるかどうかが、私にとっての「読書の成果」であり、「生産性」とは別の次元での手応えなのだと思う。読み終わった本の冊数ではなく、時間の感触がどれだけ変わったかを測るような読書を、私はまだかろうじて続けられている。
AIに情報を食わせているときにも、似たような感覚にとらわれることがある。過去の議事録やメモを一つひとつ整え、タグを付け、文脈を補足しながら投入していく作業は、端から見れば単調な下準備にすぎない。それでも、その蓄積がある臨界点を超えたとき、AIから返ってくる答えの質がふっと変わる瞬間がある。唐突に、こちらの文脈を理解したような応答が返ってくるのだ。その瞬間には、トルストイの物語がじわじわと収束に向かっていくときに似た、不気味なリアリティがある。人間の側の手間と、機械の計算能力が、どこかでカチリと噛み合う。合理的なツールのはずのAIに、奇妙な「不合理な愛着」を覚えてしまうのは、その噛み合いの感覚を一度知ってしまったからかもしれない。合理性の極にあるはずの存在に対して、こちらはますます情緒的に感染していく。このねじれた関係もまた、現代版の「雷おやじ」と呼べるのだろうか。
こうして一日を振り返ってみると、私の生活は、長大なロシア文学と、未熟なAIの実務応用と、根拠のうすい叫びと、冷静な確率論とで構成されていることになる。どれも単体では心許なく、時に矛盾し、互いを批判し合っている。しかし、その矛盾だらけの組み合わせこそが、いまの自分にとっての「生存戦略」なのだろうとも思う。合理的な説明に回収されない不合理さを少しだけ残しつつ、それでも数字とリスクの形を学び、AIという新しい雷を飼い慣らそうとする。そんなちぐはぐな方向へ今日も少しだけ歩みを進めながら、私は明日もまた、トルストイの続きと、職場のテトリスと、日本という国の不合理な合理性に向き合うのだろう。果たしてその先にどのような確率分布の未来が待っているのか、その不快な予測を、私はどこまで引き受ける覚悟があるだろうか。
