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日記
今日はまず、本を開く前にAIと少しだけ話をした。
話題は「高尚な人間は政治に関心を持たない」とたまに言われるけれど、本当にそうなのか、という問いである。
AIはこう整理してくれた。
「読書梟さんは、一人称の『私はどう生きるべきか』から出発して、仕事や福祉の実務を通り、そこから経済や政治に視線を上げ、結果としてセンやロールズにたどり着いている“実務系の哲学者”の位置にいる」と。
少し照れくさいが、たしかに自分の関心の流れを言い当てられた気がした。
「高尚な人は政治に関心を持たない」というフレーズは、精神の高さと“汚い権力争い”を切り離したいという通俗的な美学かもしれない。だが、私はむしろ逆で、善や幸福を考えれば考えるほど、制度やお金の流れに触らざるをえないと感じている。どう生きるか、どう貢献するかを突き詰めて考えると、福祉の実務に行き着き、そこから経済や政治、そして正義論へと自然に押し出されてしまう。その延長線上に、可逆性功利主義という自分なりの問いも浮かび上がってきた。
そんな対話をした直後だったので、今日の読書は最初から「可逆性・功利主義・契約・平等・自由・正義・消費者法・取引・法律」といったキーワードに反応しながらページをめくる一日になった。
最初に開いたのは『問題解決ツールとしての法的思考力』である。
ここでは「法的思考」とは「法の持つ倫理観に基づいて問題を解決すること」であり、そのための思考法だと定義されていた。法は単なるテクニックではなく、特定の価値観を帯びた問題解決ツールなのだという。さらに「なぜ法の持つ価値観に従っていなければならないかといえば、法は利害調整の基準でなければならないからです」という一文が続く。
利害調整の“基準”である以上、その背後には「平等・自由・正義」といった抽象的なコンパスが潜んでいる。労働法や消費者契約法が生まれた背景をたどると、多くの法律が具体的な事件を契機にして制定されていることを知る。誰かが泣き寝入りしそうになったその地点に、条文というかたちで「ここから先は許さない」という線が引かれていく。
ニュースやワイドショーを見ていると「政治は何も変わらない」と言いたくなるが、こうして法律の履歴を振り返ると、国は意外とよく動いている。消費者トラブルの急増に追いついていないと言われながらも、救済のための仕組みはあれよこれよと増えている。理不尽な請求や契約に対して、「公序良俗」「権利濫用」「信義則」といった見えない盾がすでに配置されていることを知ると、世界は少しだけ優しい場所に見える。
「世の中は生きづらい」という言葉が溢れているが、今日はむしろ「守ろうとする側の努力」が前面に出てきた一日だった。
『トクヴィル選集』は、民主主義の骨格を確かめるための、少しずつ噛んでいく読書である。
「貴族にとって民衆に対する影響力を保持する手段は二つしかない」という一節に足が止まる。民衆を直接支配するか、民衆と手を結んで、民衆を支配する者を抑制するか。その二択しかない、とトクヴィルは言う。また別の箇所では、権力よりも金銭の特権のほうが「より無意味にしてより危険である」と指摘する。名誉や国家を導こうとする人間は少数だが、金持ちになりたい人はほとんど無数だからだ。
ここで、朝のAIとの対話が再び頭をよぎる。「高尚な人は政治に関心を持たない」というフレーズは、トクヴィルの目から見れば、民主主義社会における多数派の欲望(富の追求)から目をそらすための、便利な口実にすぎないのかもしれない。政治や法から距離を置いて“清く生きる”ことは、一見高尚だが、利害調整の場をすべて他人に委ねてしまう態度でもある。
『フラクタリスト――マンデルブロ自伝』を読むと、このトクヴィルの直感が数学的に裏付けられていく。
マンデルブロは、自然界にも人工物にも「極端な不均衡」が頻繁にあらわれることを示し、「ロングテール」と呼ばれる分布では「標準的な値」というものが存在しないと書く。平均や“普通の人”というイメージが当てにならない世界である。トクヴィルが恐れた「金銭の特権の危険性」は、このロングテール性と結びつけて読むといっそうくっきり見えてくる。ごく一部の人間が桁外れの利益を吸い上げ、多数は細長い尾の部分に押し込まれる。
『消費者は弱くてもろい、だからこそ強くなれる』というタイトルは、このロングテールの世界で「尾の側」にいる人びとをどう支えるか、という問いの言い換えでもあるだろう。弱さを前提にすることは、同時に、制度によって「やり直し可能性=可逆性」を増やすことでもある。私は福祉の仕事をしながら、「人の失敗や無知が、一撃で人生を破壊しない社会」をどう作るかを考えてきた。その思考の延長線上で、可逆性功利主義という概念をいじりはじめている。
夜に開いたプラトン『饗宴』は、まだソクラテスが本格的に語り出す前までだが、「なぜ恋愛の対象が少年なのか」という違和感を抱えたまま読み進めている。精神的なつきあいに年齢は関係ないのではないか。しかし古代アテネでは「少年」は、未熟な市民という社会的なポジションを象徴している。教育される側と導く側という非対称の上に、エロスの物語が載っているのだとすれば、それは現代の取引・契約の場にも通じる構図である。情報や交渉力に大きな偏りがある二者の関係――消費者と事業者、利用者と行政――に対して、私たちはどこまで法や倫理で介入すべきなのか。
こうして並べてみると、今日読んだ本はすべて、「極端な不均衡」とそれに対する社会の応答というテーマでゆるやかにつながっている。ロングテールな格差、金銭の特権、弱い消費者、未熟な市民。それらに対して、法や制度はどこまで世界を可逆にしようとし、どこから先をあえて不可逆な“身銭”として残しているのか。
AIとの対話を通じて、「一人称の『どう生きるか』から、福祉・経済・政治・正義論へとにじみ出ていく実務系の哲学者」という、自分の位置づけを言語化してもらった。その延長に「可逆性功利主義」があるのだとしたら、私はこれから、具体的な法律や取引の現場を素材にしながら、「どこまで可逆にすべきか/どこから不可逆を引き受けるべきか」という線引きを考えていくことになるのだろう。
今日読み散らかしたこれだけの本は、はたしてその線引きを少しでも賢くしてくれたのだろうか、それとも単に私の迷いのディテールを増やしただけなのだろうか。
