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日記
残業を終えて家に帰り着き、ようやく椅子に沈み込んだとき、ふと思い出したのは「読書日記の書き方」を親切そうに教えてくれる、あの検索上位のブログである。「タイトルを一行だけ書けばいい」「ビフォー・気づき・ToDoで価値ある読書日記になる」といった調子の、あの語り口である。価値、価値、価値。うるさいほど繰り返される「価値」という語は、よくよく読むと「お得」「お金」「勝ち」という意味合いにしかなっていない。「読書はコスパのよい自己投資です」というレトリックの中で、書物はすべて第二の株券になってしまう。
けれども、そうした「価値」の外側に広がる世界を、彼らはあらかじめ排除している。何事も得するかどうかに還元する態度は、その態度をいったん捨てなければ出会えない別種の価値を、最初から見えなくしてしまう態度でもある。読書という営みは、むしろその後者――元が取れない側、回収不能な側――にこそ本質を隠しているのではないか。ハウツー本はいつの世も、大抵二世代くらい読まれたら忘れ去られる。それでもなお読み継がれるトルストイやドストエフスキーやマンデルブロの回想録のような本は、「どう読めば得をするか」ではなく、「読んでもなお解決しない問い」を抱えさせる本である。
だからこそ、残業明けの頭で今日の読書日記を書こうとするとき、私はあえて「コスパで測れない読書日記」を前面に押し出してみたくなる。タイトル一行ではまったく収まりきらないもの、ビフォー・気づき・ToDoといったテンプレートには決して収斂しないものを、むしろこそげ落とさずに残しておきたいのである。
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今日読み進めたのは、マンデルブロ『フラクタリスト』と、トルストイ『復活 下』である。どちらも、「読書ノートにはタイトルだけで十分」と言い放つ記事からすれば、明らかに「効率の悪い本」に分類されるだろう。厚くて長くて、そしてすぐには役に立たない。読書メモの欄に「学び」「気づき」「ToDo」を一行でまとめるタイプの本ではない。
トルストイ『復活』は、人間世界を広く、しつこいほど広く語る物語である。制度としての結婚と、人間的な愛・良心との葛藤。貴族の気まぐれな欲望と、その後始末をすべて押しつけられる女性の人生。舞台は裁判所と牢獄であり、そこには露骨な「制度」と生身の「人間」がぶつかり合う。その意味で、『問題解決ツールとしての法的思考力』という、昨日読み終えた本の記憶と微かにつながるところもある。
大城章顕の本は、「法的思考」を冷静な問題解決のツールとして提示していた。事実を整理し、権利と義務を構造化し、妥当な結論へと道筋をつけていく操作としての「ロジック」。そこでは法は、一種のアルゴリズムとして扱われる。もしAならばB、もしこの要件が満たされているならば、こういう結論に至るという、規範と事実のマッピングの技術である。
トルストイ『復活』に描かれる裁判や牢獄の場面は、表面だけ見れば同じ「法」を扱っている。しかし、その焦点はまるで異なる。そこにあるのは、法的思考がきれいに「解決」してしまったあと、あるいはそもそも解決しようとしなかった部分から、なおあふれ出してしまうものの姿である。ネフリュードフが過去の行いを悔い、被害者の人生を想像し、彼女の現在の境遇を前にして立ちすくむとき、問題はもはや「要件を満たしたかどうか」ではない。制度としては終わったはずの事件が、個人の良心においては終わらないというねじれがある。
法的思考は、そのねじれに対して有用でありうるが、同時に不十分でもある。どこまで行っても「制度としての正しさ」にしか触れられない思考の限界が、トルストイの小説では容赦なく露わにされる。そこでは、法は「問題解決ツール」である以前に、「誰かを楽にするために誰かを犠牲にする装置」としても機能している。誰が語るかによって法の意味が変わってしまう、その危うさである。
そのようなことを、真面目に語っているわりには、今日の私はさほど読み進めていない。『復活 下』はとにかく長く、物語の時間はゆっくりと、ほとんど意図的にじわじわと流れていく。裁判の手続き、牢獄の描写、ネフリュードフの内面の逡巡。どれも「もっと簡潔にしてくれ」とコスパ信者が叫びそうな箇所ばかりである。しかし、この冗長さこそが、「制度の外側にこぼれ落ちた時間」を描くためには不可欠なのである。
今日も数十ページしか進まなかった。だが、その遅さ自体が、私にとっては一種の抵抗になっている。早く読める本を大量に消費して「読破数」を誇ることよりも、一冊の本の中でじわじわと時間を失っていくことのほうが、どうしようもなく魅力的なのである。そこには、「元を取る」という発想からは決して出てこない時間の質がある。
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もう一方のマンデルブロ『フラクタリスト』は、物語の性格がまるで違う。こちらは自伝でありながら、一人の数学者の生涯の周りに、二十世紀の知的世界のフラクタルな断面が次々と浮かび上がってくるような本である。今日読み進めた部分でも、オッペンハイマーやフォン・ノイマン、チョムスキー、レヴィ=ストロースといったそうそうたる面子が当然のように登場してくる。
一般には「ノイマンのほうが天才」という語られ方をされがちである。万能の天才、ゲーム理論、コンピュータの父。そのイメージはおそらく正しいのだろう。しかしマンデルブロの回想の中に現れるオッペンハイマーの姿を読むにつけ、「こちらもとんでもない人物なのではないか」という感覚がむくむくと頭をもたげてくる。人を惹きつけ、議論を仕切り、場の空気を変えてしまうような、単なる頭の良さとは別種の「危険な知性」である。
最近、オッペンハイマーの伝記が文庫でも出たと記憶しているので、マンデルブロを読み終えたら次に手に取ってみたいと思っている。タレブはあれだけ「ブラック・スワン」や「反脆弱性」を語り尽くしながら、オッペンハイマーについてほとんど何も触れていなかった。偶然かもしれないが、それはそれで興味深い沈黙である。核開発という、人類史上きわめて「反・反脆弱」なプロジェクトに深く関わった人物を、タレブ的な物差しでどう扱うのか。そこに沈黙があること自体が、一つの問いとして浮かび上がってくる。
『フラクタリスト』を読んでいると、数学や物理や経済学が、必ずしも「効率よく世界を説明するための道具」としてだけではなく、世界のざらざらした複雑さに触れてしまった人々の驚きや畏れの記録として現れてくる。フラクタルという概念そのものも、「きれいに滑らかな関数で世界をならしてしまおうとする」解析的な都市計画に対して、「ギザギザで、境界がどこまでも続いてしまう」自然の反撃として現れているように見える。
この本もまた、「ビフォー・気づき・ToDo」で要約してしまえば、ほとんど何も残らない種類の本である。「フラクタルは市場価格の変動を説明するのに役立ちます」「複雑性に備えるためには、○○をしましょう」といった実用的なまとめ方をすれば、一見「価値」は出るのかもしれない。しかし、それをやった瞬間に、この本が持っている奇妙な厚みはごっそりと失われてしまうだろう。
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昨日読み終えた大城章顕『問題解決ツールとしての法的思考力』と、今日読み進めた『復活』と『フラクタリスト』。これら三冊のあいだには、表面的には何の関係もない。しかし、読書日記の中で無理やり並べてみると、それぞれが少しずつ別の顔を見せ始める。
大城の本は、制度の内部から、制度を使って問題を解決するための思考の手引きである。トルストイは、制度の外側から、あるいは制度に押しつぶされる側から、その暴力性と限界を描く。マンデルブロは、制度を設計する知識人たちの生態系を、数学者の視点から斜めに眺めている。三冊を並べたとき、そこには「制度と人間」「法と良心」「合理化と複雑性」といったキーワードのフラクタルなパターンが立ち上がってくる。
このパターンは、「タイトル一行+感想三行」で書かれた読書ノートの上には、おそらく決して現れない。なぜなら、そうしたテンプレートはそもそも、本同士を「関係づけずに消費する」ための形式だからである。一冊につき一枚、一冊につき一つの気づき、一冊につき一つのToDo。そこには、時間をまたいで本が勝手につながりはじめてしまう余地がほとんどない。
私にとって読書日記とは、その余地を確保するための場所である。昨日読んだ法学入門書と、今日読み進めたロシア文学と、二十世紀科学の回想録が、同じノートの上で不格好にぶつかり、勝手にこすれあって火花を散らす。その火花こそが「コスパで測れない価値」であり、「ビフォー・気づき・ToDo」では絶対に拾いきれない残滓である。
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ここまで書いてきて、ふと最初の「読書日記の書き方」ブログのことを思い出す。彼らが「読書日記の本質は継続です」「本のタイトルだけでもいいのです」と語るとき、その言葉にはたしかに一面の真理がある。習慣化のためにはハードルを下げろ、というアドバイスは、多くの人にとって有用であるはずだ。
しかし、問題はそこから先である。「初心者でもできる」と言っていたテンプレートが、そのまま「初心者だけの檻」になってはいないか。継続のためにハードルを下げることが、いつのまにか「深く考えなくてよい言葉だけで一生を埋め尽くす」ための装置に変わってはいないか。
入口に「簡単な自己啓発書」が並んでいる書店を否定するつもりはない。それはそれで必要なのだろう。しかし、どこまで行っても入口しかなく、奥へと誘う導線がほとんど存在しない書店を想像してみるとよい。その店の棚は、たしかに常に最新の「役に立つ」本で埋め尽くされているかもしれないが、そこで読書を始めた人が、十年後にトルストイやマンデルブロやカントにたどり着く可能性はどれほど残されているだろうか。
「読書日記の書き方」を教える記事の多くは、この「入口だけの書店」に似ている。彼らは読者に「価値のある読書」を約束する。しかしその価値とは、時間対成果の効率、アウトプットに直結する知識、SNSで共有しやすい要約といった、あらかじめ流通可能性を保証された価値に限られている。そこから外れた読書――役にも立たず、誰にも伝えにくく、失敗と違和感に満ちた読書――は、そもそも価値としてカウントされない。
私は、その外に残されてしまった読書のほうに、どうしようもなく惹かれてしまう。元が取れない読書、途中で挫折する読書、読んだ直後には何が起こったのかさっぱりわからない読書。それらはたしかに「コスパ最悪」である。しかし、十年後、二十年後にふと振り返ったとき、そうした読書だけが静かに残っているということはないだろうか。
◇
今日の読書日記は、残業で疲れ切った頭のまま書いている。だからこそ、ここに書かれていることの多くは、まとまった「学び」や「教訓」ではなく、ただの断片である。トルストイの牢獄の湿った空気と、大城の冷静な法的思考の図解と、マンデルブロが語るオッペンハイマーの異様な魅力。それらはまだ、私の中で一つのストーリーを形成してはいない。
それでも、こうして書き留めておきたいと思うのは、これらの断片が、「価値」で測られる前の段階の生の材料だからである。コスパという物差しを一度脇に置かなければ見えてこないもののほうに、私はどうしようもなく惹かれている。その惹かれ方自体が、マイノリティでいたいという奇妙な欲望と結びついていることも自覚している。浅いものに向かう民衆を嫌悪することで、自分の立ち位置を確認している危うさも、まったくないわけではない。
それでもやはり、今日のように、ほとんど進まない『復活』のページをめくり、フラクタルな逸話に満ちた『フラクタリスト』を少しずつ読み進め、法律入門書の図解をふと思い出しながらノートを開くとき、私は「入口だけの書店」の外側にかろうじて立っているような感覚を抱く。そこには、コスパでは説明できないけれど、たしかに自分にとっては手放したくない何かがある。
読書日記とは、本来、その「何か」に名前を与えるための場所であったはずである。読んだ冊数を競うためでも、アウトプットの量を自慢するためでもなく、「わかったこと」よりもむしろ「わからなかったままのこと」を書き残すための小さな場であったはずである。そこに記録されるのは、元が取れた読書ではなく、元の取れない読書の痕跡である。
では、そんな読書日記をこれからも書き続けるとして、私はどこまで「得にならない読書」を引き受ける覚悟があるだろうか。
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