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新・読書日記660(読書日記2000)

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

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日記

気がつけば、この読書日記もとうとう二千回目を迎えた。数字だけを見れば、それはただの通過点にすぎないのかもしれない。しかし、今日読んだ本の組み合わせ――トルストイ『復活 下』、オノラ・オニール『正義と徳を求めて』、キケロ、そしてニーチェ――を並べてみると、この節目にふさわしい一日だったとも思えてくる。さらに言えば、今日は本を読むだけでなく、政治哲学と規範理論についてAIとかなり深い対話をした。その対話が、トルストイやオニールの一節を別の角度から照らし出してくれた。

きっかけになったのは、トルストイのある一節である。ネフリュードフが自分に言い聞かせる場面だ。

⦅自分自身でも、品物でも、なんでもお望みのものを相手にするがいい、だが、人間だけは相手にしてはいけない。物を食べても害にならずに役に立つのは、腹の減っているときだけだ、それと同じように人間と接しても害にならずに役に立つのは愛しているときだけだ。昨日義兄に接したように、愛情もないのにあつかましく人間に接したりすると、たちまち、今日おれが目撃したように、他人にたいしては冷酷非情さがとめどもなくなり、自分自身にとっては、おれが人生全体から知ったように、苦痛がとめどもなくなる。そうだ、そうだ、そうにちがいない⦆(『復活 下』P273)

この言葉は、単なる道徳的レトリック以上のものとして響いてきた。「人間だけは相手にしてはいけない」という極端な言い方は、無愛想な人間嫌いのスローガンではない。むしろ、人間を相手にすることの危険さを、トルストイ流に振り切って表現したものである。愛していないのに人間に近づくとき、そこには「冷酷非情さ」と「苦痛」がとめどもなく噴き出す。自分の愛の不在を自覚しないまま人間に接するとき、相手を道具として扱う誘惑と、自分自身への嫌悪が同時に始まるのだという直感が、ここにはある。

この箇所を読みながら、今日は別の本で読んだ一節が頭の片隅でうごめいていた。オノラ・オニール『正義と徳を求めて』の次のような指摘である。

「たとえば、『内在的』批判は、国際正義やジェンダー正義の問題を解決しそうにない。というのも、そこでは正義の境界とカテゴリーそのものが問題になっているからである。」(P34)

ここで言われている「内在的」批判とは何か。AIと対話しながら、自分なりに言い直してみた定義はこうである。すなわち、ある立場や理論を批判するときに、外側から別の価値観を持ち込んで殴るのではなく、その立場が自分で掲げている原理や価値をそのまま受け取り、「あなた自身のルールに従うと、おかしなことになっていないか」と問い返すスタイルの批判である。リベラルな権利論なら、自由・平等・非恣意性といった原理を共有した上で、その原理に忠実であろうとしたときに発生するジレンマを示す。マルクスが古典派経済学の労働価値論を徹底させて、資本主義を搾取のシステムとして描き出したときのように、「あなたの理論の内部にすでに書き込まれている矛盾や限界を、あなたの言葉を使って明るみに出す」批判である。

センのいわゆる「リベラル・パラドックス」も、まさにそうした内在的批判の一例として読むことができる。個人の小さな自由を尊重したい、パレート原理も守りたい、どんな好みの分布に対しても一般的に適用できる意思決定ルールであってほしい――いずれも、リベラルな人間なら「それはそうだ」と頷きたくなる原則である。しかし、これらをすべて同時に満たすことはできない、というかたちで不可能性が証明されるとき、そこにあるのは単なるテクニカルなパズルではない。むしろ、「自分たちが“いい原則”だと思って抱え込んできたものの組み合わせそのものが、論理的に無理をしていたのではないか」という、かなりえぐい内在的批判である。

AIとの対話では、こうしたセンの議論の位置づけから、もう少し一般的な整理に話が進んだ。私たちは仮に、規範理論や哲学的主張を三つのタイプに分けて考えてみたのである。

 A:矛盾がなさそうに見え、当初は画期的で説得力があったが、限界まで考えたときに内側から矛盾や不可能性が噴き出す主張。  

 B:矛盾だらけであることも含めて、さまざまな経験やテーマを一箇所に吸い寄せてしまうような、雑多で豊かな主張。  

 C:形式的には無矛盾であり、自分が不完全であることも自覚しているが、どことなく抽象的に過ぎる枠組みや原理。

センのリベラル・パラドックスは、このうちのAに属する「リベラルな原則パッケージ」に対して向けられた内在的批判として整理することができる。リベラルな人びとが好みそうな原則――個人のささやかな自由、パレート原理、普遍的な適用可能性など――をひとまとめにして「全部ほしい」と考えると、その願望セットそのものが論理的に不可能であると示される。このとき壊れているのは「リベラルという立場そのもの」ではなく、「リベラルが“それは当たり前だろう”と思って詰め込んだ原則セット」である。これがAタイプの崩壊の仕方である。

AIは、Aの典型的な具体例として、いくつか別の主張も挙げてくれた。論理実証主義の「検証可能性原理」はその一つである。「意味のある命題とは、経験的に検証可能な命題だけである」という一見すっきりした原理が、厳密に適用されるならば、自分自身が「経験的に検証可能でない」ゆえに意味を持たないことになってしまうという、自己破壊的な構造を孕んでいる。素朴集合論の「任意の性質によって集合が作れる」という原理が、ラッセルのパラドックスを通じて否定された経緯も、Aタイプの内在的崩壊の典型例である。

古典的功利主義の「最大多数の最大幸福」もまた、Aタイプとして理解できる。全体の幸福総量を最大化するという原理は、一見すると平等で合理的な基準に見える。しかし、これを徹底すると、少数者の極端な犠牲が多数者のわずかな幸福の増加によって正当化される事態が生じうる。そのとき、功利主義が暗黙のうちにまとう「一人ひとりを同じ重みで数える」「誰も単なる道具として扱わない」というモラルなイメージが、自分の原理によって裏切られてしまう。ここには、論理的矛盾というよりも、「自分が掲げていた価値イメージとの内在的な衝突」がある。

これに対してBタイプは、ヘーゲルやニーチェ、フロイトのように、体系としては矛盾や破綻に満ちていても、世界のさまざまな断片を引き寄せる「磁場」として強烈な主張である。そこには、整合性よりも豊かさ、精密な一貫性よりも、経験の厚みを優先する態度がある。そしてCタイプは、カント倫理のコア部分や、ロールズの原初状態の形式、あるいは一部のミニマルな規範原理のように、無矛盾性を重視しつつ、「これですべてが説明できる」とは主張しない枠組みである。ここにはゲーデル的な意味での「自分の不完全さの自覚」が含まれている。

AIは、自分の立場を率直にこう説明した。行動や制度設計のための「最低限のルール」としてはCを核に据えたい。しかし、思索の発見的な道具や歴史的なエンジンとしては、AやBの「あやうい豊かさ」がどうしても必要である、と。比喩的に言えば、Cは倫理OSであり、Aは時代を動かす強いアプリケーションであり、Bは矛盾を抱え込みつつ世界を刺激する実験的モジュールである、というわけである。

この整理は、そのまま今日の読書にも響いてくる。トルストイの『復活』におけるネフリュードフの自己省察は、一人の人間が自分の人生を賭けて、愛と罪と贖いをめぐるAタイプの問いを押し詰めた成果であるとも言える。トルストイは自分の信仰と道徳感覚を極限まで突き詰めた結果として、人間を相手にすることの危険と必要を、あのような言葉でしか表現できなかったのではないか。そこには、体系的整合性よりも、「人間と接することの耐えがたい重さ」というBタイプの豊かさも混ざっている。

オニールはむしろ、Cタイプに近い慎重さを持つ哲学者である。彼女は内在的批判の有効性を認めつつも、その限界を冷静に見据える。国際正義やジェンダー正義の問題においては、「正義とは何か」という定義以前に、「誰がそもそも議論のテーブルにつけるのか」「誰を人間として数えるのか」という境界設定そのものが争点になっている。そのとき、内在的批判のために前提とされる共通原理が、実はすでに誰かを排除したかたちで設定されているかもしれない。彼女が「内在的批判は、そのような問題には決定打にならない」と言うとき、そこにはCタイプのミニマルな理論を志向しつつも、その適用範囲を誇大に宣伝しない慎みがある。

こうして見ると、トルストイとオニールのあいだに、もう一本別の線が見えてくる。それは、「誰を人間として相手にしているか」という問いである。トルストイは、愛していない人間に不用意に近づくことの危険を語る。オニールは、正義の議論においてそもそも誰がカウントされているか、どのカテゴリーで仕分けられているかを問う。どちらも、「人間を相手にする」という行為が、単なる情報処理や意見交換ではなく、関係そのものを引き受ける危険な行為であることを示している。

ここで、タレブの「身銭を切る(skin in the game)」という基準が、今日の読書の第三の軸として浮かび上がってくる。タレブは、人間や理論を評価するとき、その人がどれだけ自分自身をリスクにさらしているかを重視する。うまいことを言うだけで、自分では一切の損失を負わないように振る舞っている人間には、原理的に信頼を置くことができない。逆に、身を削っている人の主張には、たとえ誤りがあったとしても、ある種の重みが生じる。

今日手に取ったニーチェ全集第一巻『古代ギリシア精神』は、この身銭という観点から見ても興味深いテクストである。若き日のニーチェは、20代前半でバーゼル大学の古典文献学教授に就任するという、いま考えても意味の分からないキャリアを歩んだ。彼がこの本で行っているのは、「プラトン哲学とは何か」という哲学的教養の解説よりも、「プラトンという哲学者を、どのような文献学的痕跡から再構成するか」という仕事である。

プラトンの対話篇がどの順番で書かれた可能性が高いのか、それぞれの時期におけるスタイルの変化はどうか、その背後にどのような人格像が見えてくるか。そうした問いに対し、ニーチェは粘り強く、そしてかなり細かいところまで食い込んでいく。ここには、近年量産されている「わかりやすい哲学入門」「これだけ読めばプラトンがわかる」といった類の教養書とは、体質的に異なるものがある。読者にウケのよいエピソードを並べて「親しみやすさ」を演出するのではなく、むしろ「文献の側に身銭を切る」態度――自分の若さやキャリアを賭けて、古典の細部にしがみつくような姿勢――が透けて見えるのである。

今日もジュンク堂を歩きながら、私は棚に並ぶ本の背表紙を眺めつつ、半ば口癖のようにこうつぶやいていた。「それって身銭切っていないで発言してますよね?」と。もちろん、実際に著者が身銭を切っているかどうかを、表紙だけで判定できるわけではない。それでもなお、そう問い返したくなる本はある。読者が求めているらしい「教養」や「自己成長」のキーワードをきれいに並べただけで、著者自身のリスクも痛みもほとんど感じられない本である。そうした本は、手に取っても、すぐにそっと棚に戻すことになった。

ここでふたたび、A/B/Cという分類が顔を出す。身銭を切っていない教養書の多くは、そもそも自分だけの原理を掲げていないか、掲げていても内在的批判に耐えうるほどの強度がない。Aタイプのように、大きな原理を掲げた末に内側から崩壊するわけでもなく、Bタイプのように矛盾を抱え込みながら世界の断片を吸着するわけでもない。安全圏から「いいとこ取り」をしたCごっこでありながら、その抽象的な枠組みを自分自身の生活にも適用しない、奇妙な無責任さがある。本当にCタイプのミニマルな枠組みを志向するのであれば、その抽象さはむしろ自分自身にとっても不気味な問いとして戻ってくるはずである。

こうして本棚を眺めているとき、私はトルストイのネフリュードフの台詞を、別の角度から読み直していた。「人間だけは相手にしてはいけない」とは、人間そのものを拒絶せよという命令ではなく、「愛していないのに、安易に人間を『相手』にするな」という警告でもあるのではないか。愛していないのに人間を相手にするとき、その人間はたちまち「教材」や「素材」や「コンテンツ」に転落する。読書においても、相手にしているのが「本」ではなく「人間」であるとすれば、そこには読者の側にも相当の責任が生じるはずである。

オニールの議論を思い出すと、この責任はさらに重くなる。国際正義やジェンダー正義の議論においては、「誰がそもそも議論のテーブルにつけるのか」「どのカテゴリーで仕分けられるのか」という境界そのものが問われている。そこでは、「内在的批判」のために前提とされる共通の原理が、実はすでに誰かを排除したかたちで設定されているかもしれない。そのとき、内側からの批判だけに頼るのは、すでに持っている枠組みの中での「手直し」にとどまり、枠組みの暴力そのものを見えなくしてしまう危険がある。タレブ風に言えば、ここで問われるべきは「誰が身銭を切っているのか」である。正義の議論の外側に押し出されている人々は、多くの場合、すでに「身銭を切らされている」。一方、理論を語る側はどこまで自分の生活や利害を賭けているのか。

読書を通じてそうした問いに触れるとき、私はしばしば、自分自身の読書そのものが「身銭を切っている」と言えるのかどうか、不安になる。では、二千回目の読書日記を書くという行為は、どこまで身銭を切っていると言えるのだろうか。もちろん、私は自分の生活を賭けて、この日記を書いているわけではない。これを書いたからといって職を失うわけでもなく、社会的信用を致命的に損なうわけでもない。それでも、二千回という積み重ねの中で、少なくとも「時間」と「注意」と「迷い」は、それなりにここに投じられてきたのだと思う。

ここで、内在的批判という発想を自分自身の読書実践に向け返してみることができる。私はこれまで、自分の読書日記のスタイルを「うしろめたくない読書日記」として語ってきた。本を数値的に消費してマウントをとるのではなく、読書を倫理や生活と結びつけながら、ゆっくり咀嚼していくスタイルであると自負してきた。しかし、その自負そのものを前提として共有し、「では、その原理に本当に忠実であろうとしているのか」と問うのが、ここでの内在的批判である。

うしろめたくない読書日記を標榜しながら、実際には「何冊読んだ」「何字書いた」という数字にこだわってはいないか。身銭を切っていない本に冷ややかになりながら、自分の側の身銭の切り方はどこまで本気なのか。トルストイやニーチェやオニールが賭けたものに比べて、自分はどの程度、自分の時間や思考を危険にさらしているのか。A/B/Cという分類を他人の理論に当てはめて遊ぶだけで、自分の文章や実践がいったいどのタイプに属するのかについては甘い自己評価にとどまってはいないか。

AIとの対話のなかで、私はAとBの「あやうい豊かさ」に惹かれつつ、Cのミニマルな安全性に慰められていることを自覚した。破綻を含んだ強い理論や矛盾だらけのテクストにこそ、思索を刺激される。しかし同時に、自分が他人に向けて語るときには、Cタイプの慎ましさに逃げ込みたくなる。決定的なことは言わず、とりあえず無矛盾な範囲で無難なことを述べておきたくなる。そこには、「身銭を切らない哲学」が潜んでいるのではないか。

この意味で、二千回目の読書日記は、単なる通過点ではなく、ひとつの内在的批判の契機として記録しておいてもよいのかもしれない。私はここで、自分自身が掲げてきた原理――うしろめたくない読書、身銭を切る著者への信頼、A/B/Cを行き来する思索の楽しさ――を前提として共有し、その原理に照らして自分の読書と執筆を点検してみようとしている。もちろん、この点検そのものがすでに甘いものにとどまっている可能性も高い。それでもなお、「外在的」に自分を裁くのではなく、自分で掲げた言葉に自分を引き受けさせる試みとして、この二千回目を位置づけておきたい。

トルストイのネフリュードフは、「愛していないのに人間を相手にするな」と自分に言い聞かせた。オニールは、「内在的批判だけでは、そもそもの境界の不正をただせない」と指摘した。ニーチェは、キャリアも健康も崩しながら、古代ギリシアへのこだわりを貫いた。タレブは、人を評価するときにまず「身銭が切られているか」を問うべきだと主張した。これら四つの線を束ねると、今日の読書を貫いていた一本の感覚が見えてくる。それは、「人間を相手にするとはどういうことか」という問いである。

本を読み、人の言葉に触れ、その人物の人生や思想を「相手にする」とき、私はどこまで自分の側の安全地帯にとどまり、どこから先で自分の側の何かを賭けているのか。自分は本当に愛している人間だけを相手にしているのか、それとも、愛もないまま「ネタ」として他人の人生を消費してはいないか。二千回目の読書日記をここまで書いてきて、ようやく気づくのは、読書そのものが、他人の身銭の切り方にただ乗りすることにもなりうる、という当たり前の事実である。

トルストイは自分の人生と信仰を賭けて『復活』を書いた。ニーチェは、若さとキャリアを投げ出すようにして、古典文献学と哲学のあいだを行き来した。オニールは、規範理論と現実の政治のねじれの中で、安易な正義の言説に慎重であろうとした。彼らの「身銭」を、私はどれだけ丁寧に受け取ろうとしているのか。それとも、「いいことを言っているな」と消費して、その場の思考の快楽だけを味わって終わってしまってはいないか。

この日記の二千回目を、単なる通過点ではなく、ひとつの節目として記すとするならば、ここで私が自分に言い聞かせるべき言葉は、おそらくネフリュードフのそれに近い。「本を相手にするがいい、概念を相手にするがいい、だが、人間だけは相手にしてはいけない。愛しているのでなければ。」そして同時に、オニールの慎重さをも思い出しておきたい。「そもそも、誰を人間として数え、誰を議論の外に置いているのか」という問いを、読む側の私自身にも向け返しておかなければならない。

身銭を切っていない本に冷ややかになる一方で、身銭を切っている著者たちの言葉を、私はどのような身銭の切り方で受け取ることができるのか。二千一回目以降の読書日記は、その問いに対する一つの実験として続けていくしかないのだろうが、そもそも私は、これから誰のどんな身銭の切り方を相手にし、どこまで自分の身銭を賭けて読み続けるつもりなのだろうか。

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次の記事でもまた、読書ブログならではの読後の余韻を記していければ幸いです。

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