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それって不可逆性ですよね?やらかした側の「学び」とやられた側の「終わり」の非対称性

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

失敗から学びましょう、というスローガンは、あまりにもよく聞く決まり文句である。企業不祥事でも、ハラスメントでも、制度の運用ミスでも、最後にはたいてい「今回の件を教訓として」「再発防止に努めます」というフレーズで締めくくられる。そこでは「やらかした側」が学び、組織が成長し、社会全体が前に進む、というストーリーが暗黙の前提になっている。

しかし、その裏側には、いつも別の時間軸がある。「やられた側」にとっては、その出来事が学びではなく、文字通りの終わりである場合が少なくないからである。キャリアの断絶、健康の喪失、人間関係の破壊、信用の崩壊。そこには、「次の機会」や「やり直し可能性」が保証されていない。一方で、加害側・制度側は、「二度と起こさないために」「成長の糧として」と言いながら、平然と可逆性の物語を語り続ける。この非対称こそ、まさしく不可逆性の問題である。

やらかした側にとって、出来事は「ケース」であり、「ナレッジ」であり、「教材」である。研修スライドに整理され、マニュアルに追記され、社内報の一コマになる。そこでは事例は抽象化され、匿名化され、「教訓」として安全な距離に置き直される。しかし、やられた側にとって、それはただの「自分の人生」である。抽象化も再利用もできない、一回きりの現実である。

ここに、時間の可逆性をめぐる決定的な非対称性がある。
・やらかした側は、時間を前向きの物語として再構成できる。
・やられた側は、時間を切断されたものとして抱え続ける。

両者の間には、「学び」という言葉では埋めようのない断層があるにもかかわらず、公共的な語りでは、その断層がほとんど意識されない。可逆的なストーリーだけが前景化され、不可逆な損失は背景に押し込められる。

制度やビジネスは、この非対称性をしばしば増幅する。謝罪記者会見、コンプライアンス研修、再発防止策、外部有識者委員会。いずれも「やらかした側の可逆性」を保証し直すための儀式として機能しやすい。形式を踏めば、責任は「適切に対応した」と処理される。だが、制度がどれだけ誠実に動いたとしても、「既に起きてしまったこと」が取り消されるわけではない。

ここで問題なのは、「学びを得ました」「二度と起こしません」というフレーズが、不可逆な損失を覆い隠すための免罪符として使われることである。やらかした側にとっての「学び」は、しばしばやられた側の「取り返しのつかなさ」の上に築かれている。にもかかわらず、その非対称性が意識されないとき、倫理はすぐに自己啓発教材のような薄さへと堕してしまう。

可逆性功利主義の観点からいえば、「学び」や「成長」といったポジティブなストーリーは、それが当事者全員にとって可逆性が確保されている領域でのみ、正当化されるべきである。失敗してもやり直せる、試してみてダメなら撤退できる、損失が局所的であり回復可能である。その条件が整っているなら、「失敗から学べ」「トライ&エラーでいこう」という掛け声には一定の正当性がある。

しかし、不可逆な損失が発生する領域――生命、健康、長期にわたるキャリアの破壊、人間としての尊厳を侵害する行為――においてまで、「失敗から学びました」「この経験を糧にします」という言葉が軽々しく持ち出されるとき、それは単なる他人の人生の使い捨てである。やらかした側の「学び」は、もはや美徳ではなく、損失の外部化に過ぎない。

本来、「学び」は加害側が自分の可逆性を増やすために消費してよい資源ではない。むしろ、「ここから先は不可逆の領域である」という境界線を可視化し、その線を越えないように設計するための概念であるべきである。やってみてダメなら戻ればいい、というロジックが許されるのは、戻れる構造をあらかじめ用意している場合に限られる。戻れない場所まで「チャレンジ」と称して踏み込むことは、リスクテイクではなく単なる破壊である。

だからこそ、私たちは「失敗からの学び」という言葉を聞くたびに、問いを差し挟む必要がある。「誰にとっての失敗か」「誰の可逆性が前提にされているのか」「その学びは、誰の不可逆性の上に成立しているのか」。この問いを封じたまま、失敗談をポジティブな自己物語に変換することは、倫理的にはかなり危うい操作である。

やらかした側の「学び」を一概に否定することはできない。人間が完全でない以上、誰もが何かをやらかし、そのたびに何かを学び直すしかない。しかし、それでもなお問わなければならないことがある。称賛されるべきは「立ち直った加害者のストーリー」なのか、それとも「二度と同じ不可逆性を他人に背負わせないための、構造そのものの変更」なのか。

そして最後に残る問いは、きわめて単純である。
私たちが「学び」や「成長」の物語を口にするとき、その物語は本当に当事者全員の可逆性を尊重したものになっているのか、それとも知らないうちに、誰かの「終わり」の上に自分の「学び」を積み上げてはいないだろうか。

次の記事でもまた、読書ブログならではの読後の余韻を記していければ幸いです。

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