閉じる

それって不可逆性ですよね?管理者と非管理者のコミュニケーションの非対称性

ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。

管理者と非管理者のコミュニケーションには、はじめから非対称性がある。上にいる者は「指示」を出せるが、下にいる者は「受ける」ことしかできない。上は曖昧に言っても許され、下は曖昧に受け取れば責められる。上は「決めない」ことで逃げられ、下は「決めさせられた」ことで責任を負わされる。これが日常的に起きているのに、私たちはそれを「マネジメントの難しさ」や「現場の甘え」といった便利な言葉で霞ませてしまう。だが、ここにはもっと根の深い構造がある。私はそれを、不可逆性として捉えたい。

不可逆性とは、いったん発生した損耗が、元に戻らないということである。雑な報連相を受けた瞬間に、非管理者の時間は割れる。確認のために動き、穴を埋め、前提を推測し、手戻りを引き受ける。このとき失われた集中力は、あとから「ごめん」で返ってこない。燃え尽きた注意力は、あとから「次はちゃんとやる」で回復しない。非管理者が被るのは、単なる工数ではなく、神経の摩耗である。摩耗は、蓄積する。蓄積した摩耗は、あるところから突然、体調やメンタルの不調として噴き出す。そこまで行くと、もう“元の状態”に戻るのは難しい。これが、コミュニケーションの不可逆性である。

管理者が出す指示は、多くの場合「可逆的」に扱われる。「違ったら直せばいい」「とりあえず走って」「あとで調整する」。この態度は、管理者の側にとっては合理的である。全体最適のためには、細部を確定しすぎないほうが速い局面もある。だが、非管理者の側では同じ言葉が、別の現実を生む。現場にとって「とりあえず」は“手戻りの前払い”である。確定していない前提に合わせて資料を作り、関係者に頭を下げ、調整のための調整を重ねる。そのうえで「やっぱり違った」となる。管理者にとっての可逆は、非管理者にとって不可逆に変わる。ここに非対称性の核心がある。

なぜこうなるのか。理由は単純で、管理者と非管理者が持つ権限の束が違うからである。責任とは、本来、判断基準・情報・裁量の束で与えられる。管理者はその束を持っている。だから「決めない」という選択もできる。決めないことで、後から状況に合わせて動ける。しかし非管理者は、その束の一部しか持たない。判断基準が与えられず、決裁者が不明なまま、期限だけが迫ってくる。こうなると、非管理者は自分の裁量で穴を埋めるしかない。穴を埋めた瞬間に、責任が発生する。しかもその責任は、後から取り消せない。結果が悪ければ「なぜ確認しなかった」と言われ、結果が良くても「最初からそうしろ」と言われる。これはゲームとして不公平だが、構造としては自然に起きてしまう。

この非対称性を最も露骨にするのが、「改善点を教えて」という言葉である。一見すると謙虚で、改善意欲のある管理者に見える。しかし状況によっては、それは責任の再配分装置になる。雑な指示を出した側が、雑さのコストを払わず、受け手に「改善案の提出」という追加工数を課す。しかも提出した改善案が採用されなければ、現場の無力感だけが増える。採用されたとしても、運用が守られなければ、現場がまた尻ぬぐいをする。改善の言葉が、改善にならず、ただの“聞いた体”になる。これが繰り返されると、非管理者は学習する。「言っても変わらない」「言えば疲れるだけだ」。この学習は不可逆である。一度失われた信頼は、簡単には戻らない。

では、どうすればよいか。重要なのは、非対称性そのものをゼロにすることではない。組織に階層がある以上、非対称性は残る。問題は、非対称性が不可逆性に転化するときである。管理者の可逆な言葉が、非管理者の不可逆な損耗を生むときである。だから必要なのは「可逆性の配分」を調整する運用である。私はここに、最低限の仕様を提案したい。指示には、目的/成果物/期限/優先度/決裁者の五点を揃える。五点が揃わない指示は、暫定対応として扱い、品質と納期に上限があることを明示する。重要案件は文字で固定する。口頭の指示は、受け手が文章にして返し、相違がなければそれを前提とする。この仕様を入れるだけで、管理者の可逆性が現場に押しつけられる度合いは減る。

もう一つ必要なのは、敬意の問題である。挨拶の軽視や、雑な扱いは「気分」の問題に見えるが、実は運用の問題でもある。相手を人として扱わないコミュニケーションは、情報の通り道を狭める。相談が上がらなくなる。確認が遅れる。小さな事故が大きな事故になる。敬意は道徳ではなく、情報インフラである。だから管理者が守るべき最低限の礼節は、現場のメンタルのためだけでなく、アウトカムのためでもある。

そして非管理者の側にも、できることがある。ただしそれは「我慢」ではない。非管理者ができるのは、不可逆性の流入を止めることだ。言い換えれば、自分の燃焼を守るために、可逆性を取り戻す技術を持つことだ。会話を減らし、文字に閉じ込め、条件分岐で返し、曖昧さを暫定として扱う。相手の想像力に期待しない。入力の品質しか信じない。これは冷たいが、倫理的でもある。なぜなら、それは責任の形を正しくする行為だからである。責任の形が正しければ、誰か一人が不可逆な損耗を背負い続ける構造は弱まる。

それでも、不可逆性が蓄積してしまう職場はある。運用が改善されず、敬意が枯渇し、責任が下に落ち続ける場所では、非管理者は先に削れる。削れたあとに「柔軟になれ」と言われても遅い。柔軟性は、魂の計器が壊れていない者にしか、うまく働かない。だから最終的には、回路を選び直すという選択が残る。社会貢献の回路が一社一部署に独占されていると思い込む必要はない。燃焼できる場所へ移ることは、逃避ではなく合理性である。不可逆性を増やす環境から離れることは、長い目で見れば、貢献の総量を守ることでもある。

管理者と非管理者のコミュニケーションの非対称性は、ただの心理や相性の問題ではない。可逆性が片側に偏り、不可逆性がもう片側に沈殿する構造の問題である。雑な指示は管理者にとって修正可能でも、非管理者にとっては神経の摩耗として積み上がる。その摩耗が臨界点を越えたとき、個人は壊れ、チームは沈み、アウトカムは損なわれる。だから私たちは、この非対称性を「根性論」ではなく、「設計」として扱わなければならないのではないか――あなたの職場では、可逆性と不可逆性は、いまどちら側に偏っているだろうか?

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2025 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free