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読書日記アプローチを賭ける。身銭を切る読書

ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。

このブログは、読書ふくろう(読書梟)による読書日記である。

【要約】
読書は「読む」以前に、届かなさと価格の壁を抱えている。
私はメルカリで「買う→読む→売る→次を買う」の循環を作り、5年かけて読書の可逆性を設計した。
読書ふくろう(読書梟)は、身銭を切る読書日記で入口を視覚化しつづける。

読書以前の問題:偉大な本は「ある」のに「届かない」

読書日記アプローチを賭ける。身銭を切る読書――この題名は、少し大げさに見えるかもしれない。しかし私にとって読書とは、読書それ自体よりも前に、いくつもの「読書以前の問題」を抱え込んだ営みである。読書は気合や才能ではなく、環境と資源と導線の勝負であり、そしてその三つはだいたい最初から不公平である。

まず、圧倒的に視覚的な情報量がない。ここが致命的である。ネットには情報が溢れている、という反論はいつでもできる。しかし問題は「ある」ことではなく「届く」ことである。偉大な本がどこかに存在しているとして、それが自分の視界に入らなければ、存在しないのと同じである。学生時代の自分が、キケロ全集10『善と悪の究極について』という本の存在を、いったいどうやって知ればよかったのか。書店の棚には当然ながら全集は並びにくい。大学図書館にあっても、そこへ向かう動機がなければ、背表紙は永遠に背景である。読書は「読む」以前に、「見える」かどうかで半分決まってしまう。

参入障壁:学生にとって本は高すぎる

次に、そもそも学生からすれば本はめちゃくちゃ高い。これは単なる愚痴ではなく、現実的な参入障壁である。たった一冊でお年玉が吹き飛ぶ。にもかかわらず、こういった重い本を読まなければスタート地点に立てない、という局面がある。安い新書を何冊積んでも辿りつけない議論の密度が、ある種の本にはある。では、そのスタート地点は誰に開かれているのか。財布に余裕がある者にだけ開かれているのだとしたら、読書はいつのまにか「文化」ではなく「階層」になる。

読書日記アプローチ:入口を視覚化して、敷居を下げる

だから私は、せめて視覚的なアプローチを取りたいと思った。読書日記という、相対的に平素な文体で、その神髄を読者に届ける。立派な解説ではなく、読みながら転び、引っかかり、拾い直す、その過程のログとして差し出す。少しだけでも伝わればOK、という態度である。なぜなら、最初の一段はいつも過剰に重く、最初の一段を越えるために必要なのは、完全な理解ではなく「近づける」という感覚だからである。読書日記アプローチとは、読書の入口を視覚化し、入口の敷居を下げる試みである。

  • 読書日記アプローチ宣言 2.0
  • 読書ブログ|読書日記アプローチ実践編
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メルカリ読書:節約術ではなく「可逆性の設計」である

しかし、ここで終わらない。私は一会社員である。学生よりは現金の流動性がある。だが本が高いことに変わりはない。むしろ、仕事をしながら本を読むという生活は、時間も体力も同時に削る。金も時間も有限である以上、読書は「好き」という気持ちだけで継続できない。そこで私は、メルカリを駆使することにした。なるべく読んだら売る、を早期にはじめた。新品のまま積んで自尊心を温めるのではなく、読んだら流す。読んだら次へ回す。ここには潔さというより、生活防衛の計算がある。

最初は当然、売れない。評価もない。値下げ交渉も来る。梱包にも慣れない。だがコツコツ続けると、取引の履歴が信頼として溜まっていく。ある程度信頼を得たら――体感ではフォロワーが400人くらいを超えたあたりから――価格を上げ、支出の回収を試みた。すると面白いことが起きる。ネコポスで済むなら、本の定価の80%を回収できることもあるのだ。80%である。これは「本を買う」という行為の損益構造を変える。読書が贅沢品から、回転可能な投資に近づく。

ここで大事なのは、メルカリ読書が「節約術」ではなく「可逆性の設計」だという点である。本を買う。読む。売る。次の本を買う。こうして高い本を買える、売れる、買えるという循環にたどり着いた。およそ5年である。5年かかって何を手に入れたかと言えば、知識そのものだけではない。「本を買うことの怖さ」を薄める装置である。怖さが薄まると、選択肢が増える。選択肢が増えると、読書は加速する。読書が加速すると、視界が広がる。視界が広がると、あの「偉大な本の存在すら届かない」問題が、少しだけ解け始める。

身銭を切る:Skin in the Gameとしての読書日記

私はこの循環を、タレブの言う “Skin in the Game(身銭を切る)” の小さな実践として捉えている。身銭を切るとは、ただお金を使うことではない。自分の手触りがある損失可能性を引き受けることで、言葉を現実につなぐことである。読書について語るなら、自分の財布と時間と体力のところまで降りてこなければならない。抽象的な理念だけで「読め」と言うのは簡単である。しかし「高い」「重い」「届かない」という読書以前の問題を、そのままにして読書を称えるのは、どこか嘘くさい。だから私は、読書日記アプローチを掲げる以上、その手前の現実にも手を突っ込む。どうすれば買えるか、どうすれば読み切れるか、どうすれば次に回せるか。その工夫もまた読書の一部である、と言い切る。

結び:あなたは、どこで可逆性を作るのか

かくして、アプローチできる段階まではたどり着いた。あとはいかに効果を高めるか、である。読書日記を書くことは、読むことの延長であると同時に、届かなかった本を届かせるための導線づくりである。メルカリで回すことは、読むことの延長であると同時に、読むことのコストを現実的にするための仕組み化である。理念と家計は別物ではない。むしろ家計に降りてこない理念は、たいてい綺麗なまま死ぬ。

私はつづける。タレブのように身銭を切りつづける。私がきっかけで読書熱に感染する者が現れるまで。偉大な本が「存在している」だけで終わらず、「届く」までの間を埋めるために。読書の入口を、少しでも視覚化するために。読書とは、読んだ量ではなく、読める条件を増やした量でもあると信じるからである。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2025/11/19/%e3%83%8a%e3%82%b7%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%83%8b%e3%82%b3%e3%83%a9%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%bf%e3%83%ac%e3%83%96%e3%80%8e%e8%ba%ab%e9%8a%ad%e3%82%92%e5%88%87%e3%82%8c%e3%80%8f%e8%aa%ad%e4%ba%86/
こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

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