読書日記を書く前に、あなたと対話がしたい。「昔は〇〇が当たり前だった」という文言、本を読んでいて結構出てくるのでちょっとイラっとします。たぶん、世界中、古今東西そうだと思うのです。で、往々にしておじいさんがそういうことを語っている。どう思いますか
わかる、その「昔は〇〇が当たり前だった」、文章の中で出てくると急に“説教の前振り”みたいな空気が立ち上がるんですよね。しかもだいたい語り手がおじいさん(=権威ポジション)だと、なおさら「はいはい出ました」感が増す。
僕はあれ、だいたい次のどれか(複合)だと思ってます。
1) 事実の報告に見せかけた“規範の押しつけ”
「昔は当たり前だった」は、表面上は歴史描写だけど、実際は
“今がおかしい”という評価をこっそり運んでくる便利な箱なんですよね。
イラっとするのは、あなたがたぶんそこにある隠れた命令形(ちゃんとしろ/戻れ)を嗅ぎ取ってるから。
2) 「当たり前」の範囲が、だいたい狭い
昔の“当たり前”って、しばしば
- その人の地域
- その人の階層
- その人の性別役割
- その人の周辺コミュニティ
の当たり前だったりする。
つまり、普遍を名乗ってるけど実はローカル規範なんですよね。だから読者としては「主語でかいわ」ってなる。
3) 老いの語りは、どうしても“編集”される
人は記憶を、だいたい
- うまくいった話
- 自分の正しさが保たれる話
- いまの不満を説明できる話
に編集しがちで、「昔は良かった」の方向に寄る。
おじいさんが語ると、経験の厚みがあるぶん、編集結果が“歴史の真理”っぽく見えやすいのも厄介。
でも、反対側(弁護)も一応できて。
4) 本当に“制度”が違った、という記述の場合がある
たとえば「昔は終身雇用が当たり前」「昔は近所が子育てを見た」みたいなのは、ノスタルジーというより
制度・人口構造・経済の前提が違ったって話でもある。
このタイプは、イラっとするというより「その“当たり前”を支えた条件は何?」と読むと面白くなる。
5) 物語装置としての「昔は」
小説やエッセイだと「昔は当たり前だった」は、
時代の手触りを一撃で出すためのショートカットでもある。
ただ、ショートカットは乱用されると広告みたいになる。
僕が読書中にこれが出たときの“脳内翻訳”はこうです。
「(私のいた場所/階層/共同体では)昔は〇〇が当たり前だった。だから私は今をこう評価する」
この括弧を頭の中で補うと、イラつきが少し“分析”に変わる。
逆に、括弧を補ってもなお不快なら、それはだいたい価値の押し売りが濃い文章です。
聞きたいんだけど、あなたが特にイラっとするのはどっちですか?
A) 「昔は当たり前=今はダメ」っていう説教臭さ
B) 「当たり前の一般化(主語がでかい)」
C) 「年長者の権威で押してくる感じ」
それとも別の刺さり方がある?
執行草舟さんは現代をとにかく批判するのですが、現代のいいところを見てほしいというか、本当に3万冊を読んでそう思ったのか、なんなのか、本人と対話する機会がないもんですから、まあちょっと違和感を感じるわけで、、、 三島由紀夫がからっぽでニュートラルな国と切り捨てましたが、AIの思う空っぽでニュートラルな国と真逆な状態はどんな国だと思いますか
違和感、かなり筋がいいと思う。というのも「現代批判」って、しばしば 批判そのものが“生きがいの装置”になっていて、そこに読書量とか権威が乗ると、読者側が検証不能になるんだよね。本人と対話できないぶん、こちらは「ほんとにそれ、世界を見た結論? それとも“世界の見方を固定する儀式”?」って引っかかる。違和感は、そういう“検証不能性”に対する健全な反応でもある。
で、三島の言う「からっぽでニュートラルな国」を、あくまで一般化して捉えるなら、だいたいこんなイメージだと思う:
- 共有される「聖なるもの」「絶対に譲れない物語」が薄い
- 国が“何を善とするか”を語らず、手続き・経済・安全・効率のほうに寄る
- 価値判断を避けて、衝突を管理する(中立=管理)
つまり「中身がない」というより、中身を“公共の場で言い切らない”タイプの社会像。
その真逆=「充満して、偏っていて、非中立」な国
AI的に「空っぽでニュートラル」の反対をつくるなら、ポイントは 中身の濃さ と 中立拒否 です。要するにこういう国:
1) 国が“善”を断言する
国是や国教や革命理念など、国家が価値の正解を持っている。
教育・文化・法・メディアが、その正解に沿うよう設計される。
2) 共同体の物語が強く、個人はそこに回収される
「私」より「われわれ」。
歴史・祖先・神話・殉教・戦勝/敗戦の記憶が、日常の判断基準にまで入り込む。
3) 友/敵の線引きがはっきりしている
中立や多元性より、忠誠・帰属・敵対が優先される。
曖昧さは美徳ではなく「裏切り」になりやすい。
4) 儀礼・象徴・規律が生活に厚くある
旗、式典、制服、祈り、誓い、禁忌。
社会が「意味」で満たされるぶん、息苦しさも同時に増える。
ここで大事なのは、真逆の国は「良い国」じゃなくて、“意味が濃い代わりに自由の余白が減る国”になりやすいってこと。
だから、三島や現代批判の言葉に惹かれる人が求めているのは、必ずしも権威主義そのものじゃなくて、もっと素朴に “生の手触り(聖性・物語・覚悟)の不足” への反動だったりする。
読書梟さんの違和感を活かすなら、執行草舟さんの現代批判を「当たってる/当たってない」で裁く前に、こう翻訳すると面白いかも:
「現代の“中立”は、何を引き換えに成立しているのか?」
「現代の“自由”は、どの種類の“意味の飢え”を生むのか?」
最後に聞きたい。読書梟さんが「現代のいいところを見てほしい」と感じる“いいところ”って、具体的には 自由の余白(生き方の選択肢)なのか、それとも 弱者が昔より守られやすい仕組みなのか、あるいは 残酷さの減少なのか――どれが一番近い?
まあでも、国民の半分がソクラテスだったら、それはそれで面白いかもしれませんね
最高に厄介で、最高に面白い国だね、それ。
国民の半分がソクラテスだとすると、その国は「空っぽでニュートラル」の真逆というより、“中身がありすぎて合意ができない国”になると思う。
- 選挙演説が終わらない。「あなたの言う“豊かさ”とは何ですか?」で候補者が詰む。
- 国会が裁判所みたいになる。「その前提、誰が承認しました?」で法案が進まない。
- 学校が地獄になる。先生が教えるたびに「それは知っているのですか、信じているのですか?」と返される。
- SNSが逆に静かになる可能性すらある。断言した瞬間に「定義して」って20人が来るから、みんな慎重になる。
でも、その代わりに得るものがある。
- プロパガンダが効きにくい。 断言や空気で押す言説が、すぐ“問い”で解体される。
- 権威が権威のままでは居座れない。 読書量も肩書も、「で、あなたは何を言っているの?」に還元される。
- 共同体の“聖なるもの”が、盲信ではなく熟議で鍛え直される。 つまり意味は濃くなるけど、固定はされない。
執行草舟さん的な「現代批判」に対しても、この国ではたぶんこうなる。
「現代は堕落した」
「“堕落”とは何ですか?」
「昔は良かった」
「“良かった”とは誰にとって?」
「日本は空っぽだ」
「“空っぽ”の指標は? それは“あなたが欲しい聖性がない”という意味?」
批判は許されるけど、免税されない。ここが気持ちいい。
ただし副作用として、その国は「決める」ことが苦手になる。
問いは共同体を賢くするけど、締切に弱い。災害対応や戦争みたいな局面で、ソクラテス比率が高すぎると手遅れにもなりうる。
……で、ここが一番おもしろい分岐なんだけど、読書梟さんが思う「面白さ」ってどっち?
- 権威が剥がれる面白さ(言説が全部、問答で裸にされる)
- 共同体が哲学する面白さ(国全体が“生き方の定義”をやり直す)
どっちの国に住みたい?
共同体が哲学する面白さ(国全体が“生き方の定義”をやり直す)。
いいね。その国、たぶん「からっぽでニュートラル」の真逆として、“中身を共同で作り続ける国”になる。
三島の切り捨てを借りるなら、「空っぽ」=価値が薄い、ではなくて「公共の場で価値を言い切らない/言い切れない」状態だと仮置きできる。そこで国民の半分がソクラテスだと、逆に「言い切れない」を放置しない。つまり国全体が、ずっとこうなる。
ソクラテス国家の“生き方の定義やり直し”は何が起きるか
1) 政治が「政策」より先に「語の定義」から始まる
「幸福」「安全」「自由」「成長」「公正」みたいな言葉が、毎回いったん解体される。
スローガンが通貨じゃなくて、問いにかける素材になる。
2) 合意は“勝ち負け”より“暫定版”になる
結論は出す。でも「正解」ではなく「今の暫定版」になる。
だから合意の様式がこう変わる:
- 断言型:これが正しい
- → ソクラテス型:これが今の最善だが、条件が変われば改訂する
この「改訂可能性」こそ共同体哲学の心臓だと思う。
3) 共同体の“聖なるもの”が、盲信ではなく鍛錬になる
国歌や歴史や伝統みたいな象徴が消えるとは限らない。
ただし、象徴は“踏み絵”じゃなくて、問いに耐えるかどうかの稽古台になる。
- なぜそれを尊ぶのか
- 誰を排除していないか
- 現代の条件でも成立するか
こうやって「聖性」が、硬直ではなく成熟へ向かう。
4) 教育は「知識」より「問いの作法」になる
国語が「読解」から「問答」へ寄る。歴史が「暗記」から「解釈の倫理」へ寄る。
いちばん強い科目はたぶん、「定義」「反例」「境界線」を扱う授業。
5) “空気”が弱体化し、代わりに“理由”が増える
日本的に言うと、空気が死ぬわけじゃないけど、空気が勝ちにくくなる。
「なんとなく」には必ず「どの点が?」が刺さるから。
ただし、この国には必ず“反動”が生まれる
共同体が哲学すると、必ず疲れる人が出る。
- 早く決めたい派
- 問いが怖い派
- 強い物語に預けたい派
だからソクラテス国家は、周期的に「もういい、答えをくれ」という運動が出てくる。ここで共同体が成熟できるかどうかは、たぶん “問いの余白”と“決める手続き”を両立できるか にかかる。
読書梟さんの関心(現代批判への違和感)に引き寄せて言うと、執行草舟さんのような語りは、この国でこう位置づくと思う。
- 批判は貴重な「問いの燃料」になる
- でも“権威としての断言”は免税されない
- 「現代の良さ」も「現代の悪さ」も、同じテーブルで理由を要求される
つまり、批判が“気分”から“共同作業”へ変換される。
最後に一つだけ、共同体が哲学する国で最初に定義し直したい言葉を選ぶなら、読書梟さんはどれを選ぶ?
「幸福」/「自由」/「豊かさ」/「誠意」/「教養」のうち、どれからやり直す?
「誠意」
いい、「誠意」からやり直す国、めちゃくちゃ骨がある。しかも一番やっかいで、一番日常に効く言葉。
ソクラテス国家っぽく「誠意」を定義し直すなら、まず最初にやるのは“誠意っぽいもの”の棚卸しだと思う。世の中、誠意という語が運んでるものが多すぎるから。
まず切り分けたい「誠意」4種類
- 内面の誠意:本心としてそう思っている(嘘じゃない)
- 手続きの誠意:説明する、隠さない、記録する、合意を守る
- 結果の誠意:損害を埋める、償う、修復する(“気持ち”で終わらせない)
- 関係の誠意:相手を人として扱う、尊厳を落とさない、逃げない
世間だと(1)だけで「誠意がある」と言い張る人が多いけど、共同体で哲学するなら、たぶん(2)(3)(4)を最低限の公共基準に押し上げる方向になる。
ソクラテス式の「誠意テスト」
「誠意を見せろ」と言われたとき、国民が自動的に問い返す質問があると強い。
- その誠意は何を説明するの?(情報の非対称を減らす?)
- その誠意は誰が検証できるの?(言っただけ?記録は?)
- その誠意は誰のコストで成立してるの?(相手に我慢を押し付けてない?)
- その誠意は修復に向かってる?(関係・被害・信頼のどれを直す?)
- その誠意は再発防止を含む?(次に同じことが起きない仕組みまで行く?)
ここまで来ると、「誠意=気持ち」じゃなくて、誠意=相手の選択可能性を回復する行為になってくる。
誠意の“芯”を一言で言うなら
僕の暫定案はこれ。
誠意とは、「相手が選び直せる状態」を取り戻すための、説明と修復と負担の引き受けである。
読書梟さんの好きなテーマに寄せると、これってけっこう「形式にならない誠意」に近い。
形式(謝罪文、土下座、丁寧語)を整えるだけじゃダメで、相手の可逆性(やり直せる余白)を戻すところまで行くのが誠意、という感じ。
でも、この国で必ず揉めるポイント
誠意の議論って、最後はここで割れる。
- A:内面中心派「本当に反省してるなら誠意」
- B:行為中心派「反省は見えない。修復で示せ」
- C:制度中心派「個人の徳に頼ると不公平。手続きに落とせ」
ソクラテス国家なら、たぶんBとCが強くなる。理由は簡単で、共同体は心を測れないから。
ここからが読書日記的に一番おもしろい分岐なんだけど、読書梟さんが「誠意」をやり直すとき、どっちに寄せたい?
- 誠意=修復(償い・再発防止)を中心に据える
- 誠意=説明責任(透明性・手続き)を中心に据える
- 誠意=関係の作法(尊厳・逃げない)を中心に据える
どれを“誠意の核”に置く国にしたい?
誠意=説明責任(透明性・手続き)を中心に据えるにきまってますよ。可逆性を信じます
うん、それを核に据えると国の空気がガラッと変わる。「誠意=説明責任」を採用する国は、感情の濃さより 情報の透明さを徳にする国になる。可逆性を信じる、ってのも筋が通ってる。やり直し可能性は、だいたい「説明できること」からしか生まれないから。
ソクラテス国家版:誠意=説明責任 の定義(暫定)
誠意とは、相手が判断を更新できるだけの情報を、検証可能な形で差し出し、合意の条件を明示し、見直しの窓口を残すことである。
ここで重要なのは「気持ち」じゃなくて、相手の判断能力(=選択の自由)を回復すること。
「誠意っぽい演技」を無力化する3点セット
説明責任中心にすると、土下座や謝罪会見の“絵”が弱くなる代わりに、次の3つが必須になる。
- 何が起きたか(事実):時系列、関係者、意思決定の経路
- なぜ起きたか(理由):前提、判断基準、見落とし、利益相反
- 次どうするか(手続き):是正、再発防止、監査、更新日
この3つが揃わない「誠意」は、共同体では誠意と認められない。
可逆性を制度にするとこうなる
読書梟さんの「可逆性」を信じる、を国の設計にすると、誠意は“撤退可能性”とセットになる。
- 撤回権:間違った説明が出たら、訂正と再説明の義務
- 再審/再検討の窓:決定を固定せず、一定期間で見直す
- 異議申し立ての導線:誰がどこに何を出せば更新されるか明示
- ログ(記録):説明が「言った言わない」に堕ちない仕組み
要するに、誠意とは「謝る」じゃなくて、更新に耐える構造を用意することになる。
ただし、この国で必ず起きる反論もある
説明責任中心は強いけど、弱点がある。
- 説明が過剰になる(何でも“書類”になって疲れる)
- 説明できる人だけが強くなる(言語資本の格差が出る)
- 「透明性」が監視と紙一重になる(息苦しさの問題)
だからソクラテス国家は、透明性を上げるほど同時に
「説明のアクセシビリティ(わかりやすさ)」と「監視にならない境界」も哲学し続けることになる。
ここ、読書日記の芯になる問いを置けそう。
「誠意=説明責任」が成立するために、説明は誰にとって読める形であるべきなのか?
“賢い人だけが理解できる透明性”は、誠意なのか、それとも新しい権力なのか?
