平日ずっと本屋に行けなかった反動が、休日に爆発した。ジュンク堂に吸い込まれ、棚と棚のあいだで立ち読みという名の略奪を繰り返し、紙とインクの匂いを肺に入れ、文字を咀嚼しきれないまま飲み込んだ一日である。読んだのはウィリアム・ジェイムズ『信ずる意志』、執行草舟『誠に生く』、ポーコック『マキャベリアン・モーメント』。といいつつ、体感として八割は執行草舟である。今日のノートは「理想」で埋まったが、さらにそれを下支えしていたのは、執行草舟の“答えの本はインチキだ”という挑発であり、ジェイムズの“仮説は行動意思で生きる”という冷徹な尺度であった。
ここで言いたいのは、単なるハウツー本批判ではない。もっと生活に密着した、可逆性の話である。私は最近、何かに触れるたびに心の中でつぶやくようになった。「それって不可逆性ですよね?」と。答えを欲しがるほど、撤退が難しくなる。問いを持つほど、撤退と再挑戦の回路が残る。今日は、この非対称性を、読書体験としてはっきり掴んだ一日だった。
まず、今日ノートに写した言葉を並べる。ヘーゲル「民族の精神こそが、真の個性である」。ベルジャーエフ「不合理と神秘をすべて抹殺したのが現代文明だ」。ゲバラ「現実主義に基づいて、不可能を求めようではないか」。トインビー「人生とは、運命の挑戦に対する応戦のことである」。倉田百三『愛と認識の出発』から「夢見ることを辞めた時、その青春は終わるのである」。トインビー「理想を失った民族は滅びる」。これらは単なる名言集ではない。どれも共通して、「理想」とは気分の飾りではなく、時間と腐敗と退屈に抗うための筋肉である、と言っている。
だが問題は、理想が“正しい”ことではない。理想が“生きる”かどうかである。ジェイムズの言葉がここで刺さる。“ある仮説の死んでる状態および生きてる状態というのは、それ固有の性質ではなくて、それを考える個々人にたいする関係なのである。そのことを測る尺度は個々人の行動意思にほかならない。”(『信ずる意志』)——理想も同じである。理想が美しくても、ノートに写しても、それだけでは死んでいる。行動意思へ翻訳された瞬間にだけ、理想は生きる。言い換えれば、読書経験のゼロ/イチは、ページ数ではなく、行動の微差で決まる。
ここで執行草舟が、さらに過激な形で同じことを言う。“文学、詩、宗教、芸術はすべて問いかけで出来上がっている。『人生とはこういうものだ』という答えが書いてある本は一冊もない。答えが書いてある本はインチキ本である。一般にハウツー本と言うが、そういうものは何万冊読んでも読書経験としてはゼロだ。名著には一切答えは書いていない。”(『誠に生く』)——この断言は乱暴である。しかし乱暴さの中に、可逆性の本質がある。
答えは、完了を与える。完了は気持ちが良い。気持ちが良いから、人は答えを求める。だが、完了が気持ち良いのは、脳内で“手続きが終了した”と錯覚できるからである。錯覚が起きると、次の行動が止まる。止まった瞬間、選択肢が減る。選択肢が減れば、撤退できない。撤退できないということは、間違っても引き返せないということだ。つまり答えは、短期の安心を与える代わりに、長期の可逆性を奪う。これが「答え」の不可逆性である。
対して問いは、完了を与えない。不安が残る。宙づりのまま歩かされる。だから問いは、気分としては不快である。しかし不快であるがゆえに、問いは生活の手続きを終わらせない。終わらない手続きは、微調整を許す。微調整ができるということは、撤退してもいいし、別の道へ移ってもいいし、何なら翌日に言い換えてもいいということだ。問いが残るほど、選択肢が残る。選択肢が残るほど、可逆性が残る。つまり問いは、短期の不快を引き受ける代わりに、長期の自由を保つ。これが「問い」の可逆性である。答えと問いは、心理的快楽においては答えが勝ち、長期の生の設計においては問いが勝つ。この非対称性を、今日ほど身体で理解した日はない。
ここで、私自身の共鳴の理由が明確になる。私は、動物的な欲求を満たすことで得られる快楽は、動物的な幸福であって、人間的な幸福ではない、と分かっているから共鳴する、と書いた。これも実は「答えと問い」の問題である。動物的幸福は、基本的に“答え”としてやって来る。空腹が満たされれば終わる。承認が得られれば終わる。不安が消えれば終わる。終わることが目的であり、終わることが幸福になる。一方、人間的幸福は、終わらない。むしろ終わらせない。問いを抱えたまま生きる能力が、幸福の条件になる。ここで執行草舟の逆説が響く。“幸福な人生とは、その不幸と挫折を幸福と感じる自己の生命的な生き方を持つこと。それが理想を掲げるということ。”——不幸と挫折は、動物にとってはただの不幸である。しかし人間にとっては、問いを更新する契機になりうる。不幸が「なぜこうなったのか」「どう応戦するのか」「私は何を守りたいのか」という問いを立てるなら、不幸は可逆性を増やす。つまり不幸は、適切に読解されれば、撤退と再挑戦の材料に変換できる。ここに、人間的幸福の条件がある。
トインビーの「人生とは、運命の挑戦に対する応戦である」も、結局は問いである。挑戦は向こうから来る。選べない。だが応戦の形式は選べる。応戦するためには、問いが必要になる。「私はどんな応戦を選ぶのか」という問いである。理想を失った民族は滅びる、というのは、応戦の形式が消える、ということだ。応戦の形式が消えれば、残るのは反射だけである。痛いから逃げる。怖いから隠れる。損だからやめる。反射は命を守るが、歴史を作らない。問いのない共同体は、腐敗の速度に勝てない。ポーコックが描く共和政の恐怖は、そのままここに接続する。制度があっても、徳が死ねば腐る。徳とは、共同体が問いを持ち続ける筋肉である。
では、可逆性功利主義の仕様で、この「答えと問いの非対称性」を生活へ落とす。ここがラボ読書梟の本題である。可逆性功利主義とは、私の理解では、こういうルールである。①可逆的に試せるほうを選ぶ(小さく試す)。②撤退基準を先に決める(引き返しやすくする)。③測定の主権を本人が持つ(他者評価だけで測らない)。④成果指標を二階建てにする(制度指標+本人指標)。⑤個人/社会/環境の三層の転換要因に同時介入する(自分だけ責めない)。この枠組みで見ると、「答え」は危険である。答えは一撃で決めに来るからである。「こうすればうまくいく」「これが正解だ」と言った瞬間、試行の幅が狭くなる。撤退すると“間違い”になる。間違いになると恥が発生し、恥が撤退を妨げる。結果として、誤ったルートに固執する。これが不可逆性の典型である。
逆に「問い」は、試行を許す。問いは暫定合意であり、見直し期日を含む。今日の答えを明日撤回してもよい。むしろ撤回できることが健全である。問いを中心に置くと、生活は実験として設計できる。たとえば今日の読書爆発も、ただの散財と時間消費で終わらせず、実験にできる。実験設計はこうである。
個人層の介入:明日、動物的幸福の“答え”を一つ減らし、人間的幸福の“問い”を一つ増やす。ここで重要なのは、壮大にしないことだ。可逆的に試すために、小さくする。たとえば「寝る前にスマホを10分だけ減らし、その10分で『今日の問い』を一行だけ書く」。これなら撤退できる。うまくいかなければ戻せる。戻せるから、挑戦できる。
社会層の介入:問いを共有する。問いは他者との摩擦で生きる。ブログに出すのは、この摩擦を人工的に作る行為である。コメントが来なくてもいい。公開する行為自体が、問いを“外部化”する。外部化されると、仮説は死ににくい。ジェイムズの言う「生きている仮説」の条件が整う。
環境層の介入:撤退基準を決める。たとえば「読書爆発が“答えの収集”になり始めたら撤退する」。具体的には、名言が増えるのに行動が変わらない状態を検知したら、翌週は“読む量”を減らして“問いの精度”を上げる方向へ切り替える。撤退基準があると、読書は不可逆の浪費にならない。
そして測定である。制度指標(何冊読んだか、何時間読んだか、何字書いたか)だけで測ると、読書は“答えの収集ゲーム”になる。本人指標を入れる必要がある。本人指標とは何か。今日の文脈なら、「問いが一つ増えたか」「撤退がしやすくなったか」「不幸や挫折が情報に変換されたか」「応戦の形式が一つ増えたか」である。執行草舟の言う「不幸と挫折を幸福と感じる生命的な生き方」は、本人指標でしか測れない。ここを外部評価で測ろうとすると、また動物的幸福へ回収される。
最後に、執行草舟の神経衰弱の話を、ここへ接続しておく。“昔の人は神経衰弱を神の罰と言った。自分のことばかり考えているとかかる病気だからだ。今は人権だ、ヒューマニズム大事だと、私が生まれた価値は何だろう、と考えていると陥ってしまう。”——これは医学の話ではなく、問いの扱い方の話である。問いは人間を生かすが、問いが「自己の価値の採点」だけになると、人を壊す。問いは外へ抜ける必要がある。民族の精神へ、共同体の徳へ、運命への応戦へ、あるいは神秘へ。ベルジャーエフが嘆いた「不合理と神秘の抹殺」は、問いの外部を奪う。外部がない問いは、自己採点地獄になる。だから問いは、自己中心を脱する方向へ設計されねばならない。問いは“私とは何か”だけではなく、“私は何に応戦するのか”“私は何を守るのか”“私はどんな不可能を引き受けるのか”であるべきだ。こうした問いは、短期的には不快だが、長期的には可逆性を増やす。
今日の結論は単純である。答えは気持ちよく、問いはしんどい。だが答えは生活を終わらせ、問いは生活を動かす。答えは撤退を難しくし、問いは撤退と再挑戦の回路を残す。つまり「答え」は不可逆性を育て、「問い」は可逆性を育てる。執行草舟の挑発と、ジェイムズの尺度は、この非対称性をはっきり言語化してくれた。読書爆発の一日を、単なる高揚で終わらせるか、可逆的な実験の起点にするかは、明日の一手にかかっている。
では私は明日、動物的幸福の“答え”を一つ減らし、人間的幸福の“問い”を一つ増やすとして、具体的にどの行動を選ぶべきなのだろうか——そしてあなたなら、「答えの快楽」を削ってでも守りたい「問い」を、どこに置くだろうか。
