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日記
プラトン『法律 (上) 』のつづきを読む。
第二巻から読み進め、午前は120項まで読み進めた。
前回、宴会は正しく行えば勇気ある者を判定できるか、それとも宴会自体が勇気ある者を判定するものなのか、という問いが持ち越されたということを書いて記事を終えた。
プラトンの議論は遠回りが常である。
第二巻は芸術の評価に関する議論が行われた。
私は英文学の学士しか持っていないただの素人なので、間違いがあればその都度訂正していく次第である。
また、このブログはあくまで趣味であるので完璧を追求するものではない。
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持ち越された問いに答えるには「そもそも教育とは何か」という問いを突き詰める必要があるとされた。
プラトンによれば、子供が初めに体験するのは「苦痛」と「快楽」であり、魂に徳や悪徳が備わってくるのはこのことにおいてであるとされる。
加えて、教育によって子供たちの身に最初に徳が備わると述べた。
しかしながら、教育によって身についた徳も、一生の間にはたるみが生じることで失われることもある。
それを防止するために神々が「祭礼」という定めを与えた、とプラトンは述べる。
「神」という言葉を使うと、このブログが宗教性を帯びてくるように私は思えてくるので、以後は極力この言葉の使用を控えることにしたい。
祭礼とは端的に「歌やダンス」である。
プラトンによれば、歌やダンスには形容詞をつけることは妥当ではなく、「旋律」に「善い」や「悪い」ものがあるとする。
芸術には模倣作用があり、悪い旋律は人を悪くさせ、善い旋律は人を善くさせる。
「思慮」が備わっていることで人はその善し悪しを判定できるとされる。
一般に、洞察力に長けた美しく善い「詩」を子供たちが「善い」と感じることは難しい。それはまだ思慮が浅く、未熟だからである。
故に、教育の最終目標は思慮の完成である。
エジプトでは教育に配慮し、悪い芸術については法で規制しているということが議論のなかで語られた。
未熟な者に対して悪い影響を与えないようにするためである。
このようにして、法律は教育に十分配慮し、思慮に基づいて制定されなければならないという文脈のもとに議論は続くのであった。
つづく
公開日2022-05-31