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日記
ルース・バトラー『ロダン : 天才のかたち』のつづきと、
ヴィクトール・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』のつづきを読む。
(読書日記499に収録)
午前中はユゴーの小説を読み、午後はひたすらロダンの評伝を読み込んだ。
30代のロダンは苦痛の時代だったように思う。
30代の半ばでさえも、ロダンには確固たる収入がなく、自身の才能にも自信が持てずにいた。
ロダンが37歳になる1877年、フランスは展覧会場から国が買い上げるリストにロダンの作品を選ばなかった。
ロダンは政治面での勉強不足を痛感する。
この時代、芸術家はフリーメイソン結社に属する必要があり、ローマ賞の受賞者たちはロダンに敵対的であった。
ロダンはウェルギリウス、ダンテ、ミケランジェロと受け継がれてきた思想の連鎖の解明に努めた。
本書には、ロダンがダンテ『神曲』の地獄篇をポケットに入れて日々読み込んでいたことが書かれていた。
30代になっても読書に対する姿勢は変わっていない。
のちにヴィクトール・ユゴーに会い、肖像を製作するエピソード等も紹介されていた。
文学と芸術の親和性というものが今日も際立っていた。
40代になってようやくロダンが認められ始めた。
独学でもなんとかなる人がいる。
その歴史があるという事実は私を勇気づける。
つづく
公開日2022-06-20