■株式会社作品社
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日記
今日読んだ本:
クロード・ピショワ/ジャン・ジーグレール『シャルル・ボードレール』作品社
中川淳一郎『よくも言ってくれたよな』新潮新書
スーザン・ソンタグ『こころは体につられて (下) 日記とノート1964-1980』河出書房
アントワーヌ・コンパニョン『文学史の誕生』水声社
ディートマー・エルガー『評伝ゲルハルト・リヒター』芸術出版社
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これからは読んだ感想を極力減らしていきたい。
ただ、1年後、2年後の自分が過去をふりかえるときに何を読んでいたのかが分かるように記録としては残したい。
今日はボードレールの評伝を中心に読み込んでいった。
生い立ちや学生時代にどんな人物であったかを知ることができた。
成績は「可」が多く、わりと平凡で更に理系の科目が得意ではなく、天才的な学力を持っているとは言えない事が記録として残されていたようである。
注意散漫でお喋りが多いと注意されていたことも書かれていた。
昨日ランボーの本を読んでみたが、彼は早熟で例外であるようだが、ロダン、ボードレール、バタイユ、カフカ等、芸術や文学界では遅咲きや死後に評価される人物は少なくないことが分かってきた。
今年読んだ中公新書『ロラン・バルト』においても、バルトがアカデミックの世界に入ったのは晩年の頃であると書かれていた。
結局はどれだけ情熱を持ちつづけることができるかに尽きる。
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今日は「小説・時間・記号」といった観点からいろいろと考えることがあった。
本棚に置かれている本は人間の手によって持ち運ばれ、人間の目によって物語がスタートする。
読書は能動的な営みである。
一方、映画は受動的な営みであって、時間とともに勝手に進行する。
物理的には、時間の基準というものは原子の運動に委ねられている。
しかしながら、本に書かれた小説においては時間は止まっている。
ここでは人間が時間となる。
好きなときにページを戻したり、速読したりすることで小説の空間は人間が基準で時間が動く。
例えば空白なページしかない新品のノートを想像してみる。
そこに時間はない。
文字がなければ運動が発生しない。
運動としての文字。
例えば無意味な文字を羅列してみる。
まみむめまもめも
勿論意味はないかもしれないが、リズムはある。
まみむめまもめも まみむめまもめも
時間が発生した。
リズムが生まれた。
文字というものは音楽でいうと、曲の構成の基盤となるリズムとも言えるかもしれない。
単調な文章は抑揚がない。
それは、リズムはあるがメロディーに変化がすくなく、素人が作ったよう曲に似ている。
偉大な曲と偉大な小説はおそらく構成的には似ている。
それはやはり世界がフラクタル構造であるからであると思いつつある。
現時点では定量化することはできないが、いつか文学と科学はぴったり重なる。
と思いたいものの、Aiを初めとしたテクノロジーが凌駕し、人間がサイボーグ化して文学が無くなる可能性も否定できない。
科学にとって文学とはなにか。文学にとって科学とはなにか。
文字にとって記号とはなにか。記号にとって文字とはなにか。
精神にとって人間とはなにか。人間にとって精神とはなにか。