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日記
つづきを読み進めた。
第三章までは絶対に読み通すと決めたので、今日も地道に『動物の開放 改訂版』を読み進めた。
通勤中と帰宅時は『黄色い家』を読みながら過ごした。
・・・
『動物の解放 改訂版』
“鳥を、高さ、長さ、あるいは幅が羽を自由にのばすには不十分なケージもしくはその他の監禁収容施設に入れた者は、この法律に対する違反のかどで有罪であり、処罰されなければならない。” P144
これは一九五四年に英国で制定された「鳥類保護法」の第八条の第一項の文章である。
一見、動物に配慮しているように思えるが、家禽(家畜のうち鳥類に属するもの)は例外だとされた。
“ただし本項は、家禽適用されない……。” P145
飢えることはないと保証されていても、家禽はストレスで一定数死亡するのはごくありふれたことだと書かれていた。
マリアン・ドーキンスという動物学者がオックス・フォード大学で実際に実験をし、定期的にエサが与えられる、狭くて窮屈な環境よりも、何もないが開放された空間を好むということが示されたという。
“選択を許されると、草地で走り回るのとケージの両方をよく知っている雌鶏たちは、走り回るほうを選ぶだろう。実際、ほとんどの雌鶏はエサを入れてあるケージよりも、エサがなくても走り回るほうを好んだ。” P152
“(・・・)鶏卵農場では一年のあいだに一〇~一五%の雌鶏を失うのはごくふつうのことであり、これらの死の多くは明らかに、過密に伴うストレスやそれに関連した諸問題によって生じるものである。” P152
ルネ・デカルトは動物を機械とみなした。
しかし明らかに間違っている。機械に心的ストレスがあるとは考えられない。機械は何らかの欲求を持ちえない。
仮に持ちうるのだとすれば、世の中のありとあらゆる物質に心があると認めることになる。
アニミズムや神話を全否定するつもりはないが、これは非科学的すぎる。
しかし動物は明らかに機械ではない。動物も人間と同じように欲求を持っている。
そして、そのメカニズムが人間にかなり似ている。
欲求不満が爆発すると人間はときに感情的になるが、動物も同じである。
あらゆる、物事はグラデーションであり、どこまで動物が理性的であるかは分からないが、ひとまずデカルトのように機械と見なすのはナンセンスであることは科学的にも示されている。
だからといって、自分はヴィーガンになる予定はいまのところない。
そうではなく、ヴィーガンの人の意見を無視してはならず、お互いがコミュニケーション可能な域にまで高め、建設的な議論をするための、ある種の人間としての義務である。
差別問題を挙げればキリがないが、差別は往々にして無知によって発生する。
だから無知は罪なのである。これはとあるジャーナリストの言葉である。
啓蒙には限界があることをアドルノとホルクハイマーらが指摘していたが、だからといって無知であって良い理由にはならない。
善く生きるとは徳を持つこと。徳とは自分で考える能力のことでもある。
自分は今後もプラトンの教えに従いたいと思う。