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読書日記600

アマルティア・セン/バーナード・ウィリアムズ『功利主義をのりこえて』ミネルヴァ書房(2019)

■株式会社ミネルヴァ書房

公式HP:https://www.minervashobo.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/minervashobo

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/30/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98598/

  

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日記

50ページほど読み進めた。

第一章、R・M・ヘアによる「倫理学理論と功利主義」を読み終えた。

予想通り、昨日書いたことが語られていた。プラトンの「善悪」がどのように功利主義に関する理論に受容されているのかを部分的に理解することができた。

しかしながら、非常に複雑な章であった。

ヘア氏は「正しい行為」「合理的な行為」「善い行為」を区別した。

したのではあるが、端的によく分からない。

善い行為のことを、ヘア氏は「正しくはなくとも、善い人がする行為である」とした。

また、「正しい行為」と「合理的な行為」の違いについては確率が考慮されている。

合理的な行為とは、その行為が「正しい結果」をもたらす可能性が「最も高い」ものとした。

つまり、「正しい行為」が最も重要である意味合いが強い。

であるので、ヘア氏は知性を備えた人間の道徳的判断は功利主義的であるとした。

「正しくはなくとも、善い人が行うこと」という表現に違和感を感じた。

プラトン(=ソクラテス)のいう「善い行為」は絶対的に正しい行為のはずである。

「善い行為」≫「正しい行為」

ではないのか。

ここに疑問点が残った。

二章以降を読めば少し違った視点で考えることができるかもしれない。

公開日2022/8/13

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