■株式会社幻冬舎
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日記
つづきをよみすすめた。
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日記
パラリンピックと能力主義のパラドックスについて語られた。
障害は「個人」ではなく「社会」が生み出すもの、という捉え方がなされることによって責任が社会に転嫁する。
すると、個人個人は「努力次第」という発想が生まれる。
また、エンパワーメントとしてのテクノロジーがそれを後押ししてしまう。
身体的な障害を持った人はテクノロジーによりサイボーグ人間となり、「一般人と変わらない」という認識が助長されかねない。
ということが書かれていた。
また、後半では死刑制度の是非が問われた。
植松死刑囚を処刑することは「死に値する人間」の存在を肯定する。
・・・
一般に、親族が殺害されてしまうという悲劇的な経験をする人は少数である。
死刑制度に反対することは、ある意味安易の側面もある。
当事者にならなければ分からないことがある。
従って、その断絶を理解できない限りは安易に死刑制度に反対することは難しい。
弁護士は「私は哲学者ではないので、法律に従う」と言った。
今日までに、哲学者と一般人を交えて本格的に死刑制度を議論する機会が日本にあっただろうか。
大学等の教育機関では行われているかもしれないが、やはり議論が足りないようにも思う。
これは権威を持った人間が決めるのではなく、個人個人が考えなければならない。
しかし、現代人は往々にしてそんなこと考えるほど暇ではない。
議論が「アウトソーシング化」されているとも言える。
めんどくさいことは何事も発注すればよい。
そういう発想が人々の精神を覆っていないだろうか。
だからこそ、やはり読書は大事なのではないだろうか。
帰りの電車で10分あれば読める。
ゲームに興じるのも良いが、考える時間を少しでも持つことは大事である。
公開日2022/8/19