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読書日記674

       池田晶子/大嶺顯『君自身に還れ 知と信を巡る対話』本願寺出版社(2007)

■本願寺出版社

公式HP:https://hongwanji-shuppan.com/

公式X(旧 Twitter ):不明

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つづきを読み進めた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/05/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98673/

  

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日記

前回の記事では相対主義と絶対主義について考えた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/05/%e4%b8%89%e6%b5%a6%e7%b6%be%e5%ad%90%e3%80%8e%e5%a1%a9%e7%8b%a9%e5%b3%a0%e3%80%8f%e8%aa%ad%e4%ba%86/

  

100項までたどりついた。

ハイデガー、技術、ロゴスについての深い話が展開される。

ハンナ・アーレントの師匠であり、哲学者かつ精神科医でもあったヤスパースは技術を管理しなければならないことを説いた。

ハイデガーは技術の管理を批判し、技術はヘーゲルまで築いた思想そのものを無効にする、そのように考えたと本書で語られた。

・・・

再び絶対主義について考えた。

絶対的な善人はいないかもしれない。

人は極限状況においてもなお善悪の判断ができるか。

その経験のない自分からすれば、不正を成す可能性は否定できない。

しかしロゴスにおいて善悪は存在するのではないか。

そう主張すると、今度は善悪の決着がつかない議論、例えば政治的な善悪の不確定性について反論されるかもしれない。

正義なんてないではないか。

それは政治形態の不完全性ではないだろうか。

ある種の倒錯行為ではないだろうか。

倒錯こそが社会の矛盾ではないだろうか。

公開日2022/9/15

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