■株式会社文藝春秋
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つづきを読み進めた。
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日記
前回では科学の枠組みを否定せずに、かつ暗黙知の次元にも踏み込めるような新しい認識論を組み立てるまでをざっくりとまとめた。
筆者いわく、あらゆる思想のなかで唯一その可能性を見出せるのは「ベイトソン」の思想ただ一つということであった。
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「明日の形而上学」の章は本書の核である。
非常に密度の高い考察が展開される。
1時間で30ページ進めば早いくらいの、重厚な章であった。
夕方からひたすら格闘した。
狂気か正気かは論理構造の区別がつくかどうか。しかし、それが本質的に何を意味するというのだろう。
それが参加する意識としない意識とどう関係があるのだろうか。
力不足であった。
なかなか手強い本である。
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ベイトソンは生物学と文化人類学の両方を研究している。
そこで見えてきた社会の論理構造を学習理論として打ち立てる。
ベイトソンによれば学習には三段階ある。
ボタンを押す⇒餌が降ってくる
古典的な実験によって明かされたことは、第一段階の学習方法については四種類あるということだった。
ここに関しては、ちまたにある心理学書にいくらでも書いてあるので割愛。(キーワード:スキナー、行動主義)
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自動車免許の教習所に第二段階があるように、そしてその第二段階こそ重要であるように、ベイトソンの第二段階の学習は重要である。
本書によれば、分裂病の患者はメタコミュニケーションを「しない」ように仕向けられているとされる。(P266より)
恋愛で例えるならば、「嫌い」が、実は「好き」というメタメッセージとなっている形態のコミュニケーションを分裂病患者はしない。
「正気」とされる人間のコミュニケーションは、メタコミュニケーションを「する」ように仕向けられている。ただそれだけの違いである。
しかしながら正気の人間は、「ラッセルのパラドックス」をも同時に受容してしまっている。
著者によれば、第二段階の学習を構成する大部分が論理学の逸脱から成り立っていることを指摘する。
この点はまだ個人的に考察が進まないでの一旦保留にしたい。
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大事な点は第二段階の学習がコンテクストに依存していることである。
自分の正しさはコンテクストの「上」で、かつ「自分で」規定するのである。
よって、コンテクスト「自体」の正しさを立証することはできない。
トートロジーでしかないからである。
人間はコミュニケーションのたびに「ラッセルのパラドックス」を生産する。
一方、動物はそうではない。
ここに、言語を獲得した人間の倒錯があるのか、はたまた近代以降がクレイジーなだけなのか。釈然としない。
議論の核が見えてきそうで見えてこないような気もする。
ひとまず書かなければ間違いなく忘却されることは分かっていたのでとりあえず書き残した。
つづく
公開日2022/9/29