■株式会社文藝春秋
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つづきを読み進めた。
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日記
最終章手前まで読み進めた。
今日も意識を飛ばしながらページは読み飛ばさずに食らいついた。
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本書の内容を十分に理解することは難しい。
そのためにはベイトソン『精神の生態学』やウィーナー『サイバネティックス』を読み込まなければならないからである。
そのため、大事な部分だけなんとか拾えるような読み方に努めた。時間がかかってもいい。重要なことはデカルト的世界観を大局的に俯瞰できる目力を養うことにあるのではないだろうか。
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ベイトソンはダーウィン主義の修正案を提出した。
人間は知りたがる生き物ではあるが、暴走してはいけないということを意識させられた。
著者は精神の状態を三つに分ける。
・自己修復的
・分裂生成
・暴走
テクノロジーと超耐性菌のイタチごっこは「暴走」にあたる。
やがて超耐性菌から攻撃をくらい、大きな損害を被るわけである。
人間にも意地があり自己修復的な精神のあり方によって立ち直る。
正のフィードバックと負のフィードバックの反復。
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斧で薪を割るとき、精神は斧に集中する。
このとき、精神は「関係性」のなかへ入り込む。
ベイトソンは、精神は関係であると考えた。
人間の内部で自己完結するのではなく、自然と一体化した精神をひとつの単位としてみなす。
ここにデカルト的認識論からの脱却が確認できる。
ここからは感想として、暗黙知について書き残したい。
あらゆるものを言語化する態度こそが「参加しない意識」であるように感じた。
無意識の動作、言語化の難しいダンス等を言語化することは、言い換えれば「客観化」することである。
そしてデカルト的世界観から抜け出せないでいるわけである。
今日の脳科学者、認知科学者は何のために何を研究しているのだろうか。
仮に、あらゆる現象の定量化を目指すものであれば倒錯である。
結局のところ資本主義の暴走と似ている。なんのための、だれのためのテクノロジーとなるか。
公開日2022/10/5