閉じる

新・読書日記72

  宮﨑裕助『読むことのエチカ: ジャック・デリダとポール・ド・マン』青土社(2024)

■株式会社青土社

公式HP:http://www.seidosha.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/seidosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

        カント『道徳形而上学の基礎づけ』光文社古典新訳文庫(2012)

■株式会社光文社

公式HP:https://www.kobunsha.com/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/kobunsha_cs?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日記

國分功一郎氏が文庫版『読むことのアレゴリー』の帯に「読むことで倫理に到達する」と書いてあったことの意味が少しだけ分かったような気がした。だからといって読むことですぐに倫理に到達することはない。読者は徹底的にテクストと向き合うことで初めて、倫理の扉をあけることが可能となる。

  

今自分のブログを見ながら少しふりかえってみると、やはり自分は道徳哲学や倫理に関する本を読む傾向にある。

理由はいろいろとあがると思われるが、カントが倫理を「自由の法則」と定義していることに多少の魅力を感じていたのかもしれない。

倫理とは真面目な人間の行動原理ではなく、自由を求める人間の行動原理なのである。

  

今日は倫理が概ね実践にむすびつかないことで、人々に嘲笑されることに対するカントの応答を読んだ。

その原因としては、倫理学がつねに実践を意識しているから逆説的に理論の仕上げに時間がかかっているという指摘であった。

たしかにそうだなと考えさせられた。

  

裏を返せば、いったん理論が仕上がると実践に移行可能という指摘でもあった。

  

学者は理論しか知らず、役に立たないといったことがたまに批判されるが、半分正解で、半分間違いだということが理解できた。いや、もしかすれば9割は間違いかもしれない。

 

・・・

ポール・ド・マン『美学イデオロギー』での問いかけの断片的なことを今日理解することができた。

シラーは社交ダンスを見て美(音楽)は空間に秩序をもたらす(踊っているあいだ、人はぶつからず華麗にふるまっていた)ことを見出し、政治に応用可能であると考えた。

しかしナチズムによってそれが机上の空論であることが判明した。

美は全体化する可能性を秘めている。

その原因を考察するのは『美学イデオロギー』のひとつの問いかけであることを、なんとかつかめた。

引き続き、じっくり読んでいきたい。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free