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新・読書日記75

       プラトン『パイドロス』岩波文庫(1967)

■株式会社岩波書店

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        フォークナー『響きと怒り』講談社学芸文庫(1997)

■株式会社講談社

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        執行草舟『生命の理念Ⅰ』講談社エディトリアル(2017)

■株式会社講談社

公式HP:https://www.kodansha.co.jp/

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  ショーペンハウアー『意志と表象としての世界Ⅰ』中公クラシック(2004)

■株式会社中央公論新社

公式HP:https://www.chuko.co.jp/

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メモ

『意志と表象としての世界Ⅰ』

“あらゆる客観的なものは、客観的なものであるからして、認識を主観によって、その認識形式をも含めて、多様なかたちで制約を受けていて、主観の認識形式を前提としている。したがってすべて客観的なものは、主観を取り去って考えれば、消えてしまうものである。唯物論とはそれゆえに、われわれに直接与えられているものを、わざわざ間接的に与えられているものから説明しようとする試みである。” P66

  

“(・・・)科学にできることは、畢竟、一つの表象の他の表象に対する関係を知ることを教えるという以上のことではあり得ない。” P67 

  

“(・・・)「主観がなければ客観はない」とは、あらゆる唯物論を永久に不可能にしてしまう命題である。” P70  

   

“世界とは端的にいって表象であり(・・・)自らの存在を担う者として認識する主観を必要とする” P71 

 

・ショーペンハウアーのカント批判

“’(・・・)カントの四つの二律背反は本書の付録である『カント哲学批判』のなかで、根拠のない詐欺であることが証明されるであろう。” P72 

  

ショーペンハウアー「認識における二律背反」

⇒「主観」を持つことのできる存在(人間)も、先祖を無限に遡れば無生物になり得る⇒無生物には主観がない⇒世界は「眼(主観のある存在)なしに成立し得ない」というショーペンハウアーの見解に矛盾が生じる。

  

ショーペンハウアー「時間とは意識の形式である」

  


日記

 

先にショーペンウハウアーについて書き忘れないうちに書いておきたい。

この「認識の二律背反」については、マルクス・ガブリエルと池田晶子の考えと通ずるものがある。

池田晶子についてはハッキリと記憶している。池田晶子は目について語っていた。

目はいかにして形成されたか、というエッセイのなかであった。

はてなブログ大学文学部にその記事の記録が残っていた。

   

“池田氏は深海魚に眼がない生き物がいることを指摘してこう言う。

「光が先にあって、そこから眼が生まれた」

光がない深海には眼が要らない。故に眼がない魚がいても不思議ではない。

この考えを応用させていく。

つまり、先に「考え」があり、「精神」があり、そこから「脳」が生まれた。”

宇宙の始まりはまだ完全には解明されていない。

地球をひとつの生命としてみるガイア理論というものがあるみたいだが、宇宙全体がひとつの生命という考えもロマンがあって面白いと自分には思われた。

そのように想定しないと認識の二律背反は解決できないようにみえる。深い。

あとショーペンハウアーが、ドイツの哲学者フィヒテを「似非哲学者」と、明らかに罵倒している様子もある意味痛快であった。

想像以上に辛口な哲学者である。

そんなショーペンハウアーはエル・クリティコンを愛読していたのだという。

これももう一度読みたくなってきたところである。

  

・・・

一回諦めてしまった本は、長い時間を経て再読への情熱が高まる。これが非常に不思議なもので、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』とエドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』をも読破できるくらいのエネルギーとなった。熟成と似ていて、いきなり読むことよりも、時間を置いてから何かの衝動によって読むことのほうが、より読書の時間が充実、濃密なものになるのかもしれない。こういうものは目に見えず、数値化・定量化ができないので文章で表現することしかできない。

  

今日はいろいろな本を縦横無尽に読み漁り、合計400ページくらいは読んだ。

『生命の理念』もまた深い。

定量化できないものがあるからといって、それが「無い」ものとして扱われるのはあまりいいものではない。

しかしリチャード・ドーキンスのようなゴリゴリの科学万能主義者は定量化できないものは無視してかまわないと考えているかもしれない。

ところが世の中、栄養学では説明できないことがあるようで、執行草舟氏はそれを文学の観点からうまくついているのであるが、それを研究して事業にしてしまうのはやはり尊敬に値する。尊敬という言葉は逆に失礼かもしれない。畏敬の念、崇高といった言葉のほうが合うかもしれない。今日は「菌食」の深みへと掘り下げていった。精神科医の和田秀樹氏とも通ずるものがあるかもしれない。

和田秀樹氏は総合的に見られる医者がいないことへ警鐘を鳴らしていた。医学の専門分野の細分化によって全体的に、俯瞰して物事を考えることのできる医師がいなくなると様々な弊害が社会にもたらされる。

コロナ禍ではよく和田秀樹チャンネルを観ていたことを思い出す。

そしてこの和田秀樹氏は私が非常に尊敬している小室直樹とも交流があったとされている。

 

・・・

  

パイドロスも再読。

メノン、プロタゴラスは分かりやすい文体であったが、パイドロスは抽象度が高く、これは精読しないと読めないと判断。

魂の不死は、プラトンもショーペンハウアーと同じように、因果律によって証明した。

証明はしたが、やや結論が早い気もした。

動的な存在(生命)が不動の存在(物質)から生まれることはあり得ない。よって魂は存在する。。。

どうなのだろうか。

たしかにこれは池田晶子の見解と同じである。

  

あまりに深すぎる。

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