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メモ
オルダス・ハックスリー「時間は最近の発明である・・・それは技術の副産物である・・・今日、時間は私たちに対する残酷な独裁者となっている」
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日記
トーマス・マン『魔の山』は後半に突入し、80ページほど読み進めた。
(以下ネタバレ有)
『虚無の構造』は100ページまで読み進んだ。
・・・
カストルプとセテムブリーニたちの議論が白熱した。
戦争や自由について語られる。
自由は人間愛の原理だとか、戦争は必要だとか、各々言いたいことを語る。
カストルプは、政治については知らないと語った。
・・・
戦争については自分も無知ではあるが、秩序とは拮抗であるのではないか。
これはミクロでも同じことだ。
法律がない状態を考えると恐ろしいが、法律は人々へ「抑圧」するものとして機能する。
とはいえ、それは約束ごとのようなもので、物理的に縛り上げるものではない。
従って人間の内面においては絶えず拮抗し続けるのである。
「魔が差した」とは拮抗状態が崩れることにある。
・・・
道徳、倫理を突き詰めれば正しいと思われる法則の輪郭はみえてくる。
しかし、その法則は人間の外側にあり、人間の原理ではない。
人間の原理であるならばそもそも道徳という概念は存在しない。
この原理というものを突き詰めて記述したのが西部氏の『虚無の構造』だ。
・・・
今日は人間の欲求に関して、マズローの批判を行いながら、欲求の多面性について語られた。
しかし、本質からして人文科学はある社会的な原理を証明することが不可能であるので、いくら説得力のある西部氏の考察を読んでも逆に虚無になってしまう。
太宰治でいうならばトカトントンである。
人文はある程度信じることでしか前に進めないような気がするのである。
私が執行草舟氏の考察を深追いし、ヒューマニズムの原理を理解したところで何を「知った」ことになるのだろうか。
これが、つまりは池田晶子が「自分で考えるんだ」と繰り返し語る理由である。
偉大な哲学者の仕事をなぞるだけの研究者で溢れるアカデミズムの虚しさはここにある。
なんのための哲学か。
それは食べるための哲学ではないか。
しかし哲学の原点は食べるための生との訣別であったはずだ。
これでは本末転倒。むしろ退化ではないか。
ティム・コン・ティエンは哲学者サルトルの、フォークナーの読み方を批判する。
時間に関するフォークナーの考えへの攻撃を、それは違うと断言した。
長期的には、おそらくサルトルの小説よりもフォークナーの小説が評価されるかもしれない。
サルトルの実存主義は今日色褪せているようにみえる。
勿論、それは無駄な試みだったとは言えるはずないが、普遍性のない哲学が淘汰されていくのは当たり前ではないだろうか。
物事を考えるとき、やはり独創性よりも普遍性を追求したほうが意義あるように思う。
そして、普遍性あるものは必ず読み継がれているはずである。
だからこそ、古典を読む。
十年後に100円になる本を読むことになんの意味があるのだろうか。
ニュースも然り。
それが答えなのではないだろうか。
公開日2022/11/14