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日記
過去、世界的な規模で起きた文学運動について関心を持った。
そのひとつがエミール・ゾラを発端とした「自然主義」というものである。
これが日本においてどのように受容されていったのか、『自然主義文学盛衰史』を読んで調べた。
日本の近代文学についてある程度見えてくるものがあったが、そもそも文学が各々の時代においてどのように社会と併存していたのか、この観点に関する見識が自分には足りていないと感じた。
『戦後日記』や『三島由紀夫とトーマス・マン』を読むと、日本の思想的基盤はそもそも西洋とは異なり、その背景にはキリスト教がまずあり、そして人文主義や啓蒙思想が国民にどの程度浸透しているのか、そういう差がある。
思想的背景が異なるため、明治時代の前後においては古典、ここでは「文学」と一括りする場合、その「定義」には混乱があったと推察される。
例えば、小林秀雄や林達夫の二人はドイツ哲学とフランス哲学、そして共産主義が日本へと流入していく状況に対して、「思想」という雑誌の中身が進歩していないことを指摘している。(『批評の精神』より)
三島由紀夫は日本の小説における会話の空疎感を指摘していた。
マン『魔の山』とドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に見られる思想的な論争が日本文学では希薄ということを三島由紀夫は感じていて、だからこそ彼の小説では古典を引き継ぐ形で、独創性を保持しながらアレンジを加えていった。三島由紀夫の小説はトーマス・マンの形式を継承していることが理解できた。
・・・
文学というものを立体的に見ていくといろいろと発見があり面白い。
例えば日本の一部の識者によると、ジャン=ジャック・ルソーの平等主義はとんでもない、という意見もある。
今日、『ゲーテとの対話 (中) 』と『ゲーテとトルストイ』を読み進めたが、どうやらゲーテはスピノザに傾倒していて、ルソーは信用していなかったようである。
ルソーのどこがいけないのか。
例えば、平等を求める運動というのは往々にして革命につながり、犠牲者を多数生んでしまったフランス革命、ロシア革命、中国革命を鑑みれば分からないこともない。
少なくとも、教科書では語り尽くせなかった歴史の「隙間」というものが文学作品を丹念に読み込むことによって見えてくるものがあるのではないだろうか。
古典から学べることはつまり、そういうことなのではないだろうか。
公開日2022/11/30