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つづきをよみすすめた。
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日記
この本を理解することは不可能だけれども、それでも読む。分からないけれども自分なりに納得いくまで読みたい。
というわけで、ちびちびお酒を飲むように、ちびちびと読み進めた。
ひとまず150項まで進んだ。
・・・
「美」と「崇高」の差異について、カントの論述を丹念に読んだ。
両者は似た性質を持ち、感性的判断でもなく、論理学的判断でもないが、お互いに「反省的判断」という点において一致しているとカントは述べた。
また、両者とも「善」とは違い、概念に依存するものでもないということが確認できた。
ここから先は複雑な議論になっていくので、以下、今日読んで感じたことや個人的な解釈を書いていきたい。
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まず、崇高の意味を調べると、気高く偉大なこと、と定義されている。
しかしながら、偉大なもの、立派なものが「善」と言えるかどうかを問えば、必ずしもそうではないと思われる。
政治家は社会的な地位があり、ある人にとっては立派かもしれないが、これは絶対的なものではなく相対的である。
ヒトラーが典型的である。
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カントは、崇高的なものを感じるためにはあらゆる理念で充たされていなければならない、と書いている。
まだ意識の薄い赤ん坊に当てはめてみると分かる。
赤ん坊に偉大さを理解できる力があるかというと、そうではないように見える。
しかし、赤ん坊の有する認識力、知覚力は「美」を享受できる能力があるように見える。
従って、カントのいう通り、美は感性的であるが崇高はやや違うように見える。
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倫理と美学には親和性があることが見えてきたが、倫理と美学という言葉が分離している以上、必ず差が存在する。
カントの問いかけは非常に強力で、ある概念を掘り下げる時に参考になる。
公開日2022/12/27