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読書日記921

     なだいなだ『神、この人間的なもの』岩波新書(2002)

■株式会社岩波書店

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日記

第二章の終わりまで読み終えた。

精神科医の著者は、若い頃にカトリックの同級生と神の存在について議論を交わしていた。

しかし感情的になると議論から喧嘩に変わってしまう。以後、著者は宗教というセンシティブなトピックに触れずにいたままであったが、70歳を迎えなんでも言えるようになったとのことで、同級生T氏と再び議論を交わす。

・・・

T氏は自身が癌になったことから救いを求め入信した。

T氏によれば、入信する理由として、T氏のように救いを求めて自発的に入信する人は少数だという。

最も多いのは習慣、つまり環境だという。

次に「折伏(説得されて入信)」だという。

昨日、池田晶子の宗教論について触れたが本書でも同じ心理がうかがえた。

39項には折伏したがる新宗教の心理がT氏によって語られた。

”入信したばかりの新しい信者は、折伏したがる。不安だからだよ。分かった、これだ、といったんは思うのだが、自信を持てない。” P39

分かったと思っても実はわかっていないのである。

池田晶子はこの心理を「わかったつもり」になっていると見抜く。

池田晶子は「わからないから考える」のが普通であって、「わからないから信じる」は筋違いだと語っていた。

そして著者も同じ見解を示した。

“それだったら、教義にはあまり詳しくないものたちが折伏することになる” P39

なぜか。

「信じなければ不幸になる」という強迫観念があるからだろう。

つまりこのプロセスには「考える」という最も大事なことが省かれてしまっている。

考えることを放棄することは「権威主義」になることであり、判断を他人に委ねることになる。かくして「個」は失われていくわけである。

教義というものは飾りに成り果て、新宗教のなかには権力構造のようなものが生まれる。

「個人崇拝」はかくして生まれるわけである。

新宗教には指導者が必ず現れる。

以上、宗教や人間の心理構造について理解が深まる読書時間であった。

公開日2023/1/30

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