■株式会社河出書房新社
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感想
ルソーは人間を悪だと決めつけず、制度が悪の根源であると信じた。
私は日頃から「形式」というものに悪魔性を感じている。
形式は制度の部分でもある。例えば書類上はそうなっているが実際はそうではない(あるいはその逆、書類上はそうなっていないが実際はそうなっている)、ということはこの小説においても「米山みき」という家政婦と主人公の正木との結婚をめぐるトラブルの種となっている。
まずひとつに、制度というもの、形式というものがいかにして悪(=不正)を生むか、この小説から見出すことができた。
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さらに細かいことを言えば、ベイトソンのダブルバインド理論、そしてポール・ド・マンが追究した意味の二重性の問題ともぶち当たる。
言語と認識の限界。
意味が二通りに解釈されざるを得ない。このことは岩波書店『ポール・ド・マン-言語の不可能性、倫理の可能性』に詳しく書かれている。
人間関係をめぐるトラブルのひとつに、意味の決定不可能性がまとわりつく。そのことを思わせる小説でもあった。
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理論家になるか、実践家になるか。
この小説では前者は法学部教授、後者は革命家になる。
主人公の正木は前者であった。小説を読むと、理論家は実践を伴わないことが痛いほど伝わってくる。そして後者もまた、全共闘という歴史をふりかえれば惨敗に終わっている。
政治思想史に詳しい仲正教授によれば、左翼やポストモダンはとうに行き詰まりをむかえている。
人間がひとりでできることはほんのわずかにしかないという痛切な思いが伝わる。
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バッドエンドと言えるこの小説。
不合理に満ち溢れた「苦悩教」のデビュー作。
端的に言えば「愛」と「愛欲」が拝中律であることが真実であると匂わせるものとなっている。
ただ、そんなことはこの小説の中核的なテーマとは到底思えない。
矛盾の根源とは。
法とは。正義とは。
考えれば考えるほどそれは勿論骨の折れる労力要する。
しかしそれでもやはり私は「形式」の悪魔性というものに着目したい。
このことを念頭に置きながら次は『我が心は石にあらず』を読む。
(『憂鬱なる党派(下)』は一旦保留)
公開日2023/2/23