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読書日記950

ヒラリー・パトナム『事実/価値二分法の崩壊〈新装版〉』法政大学出版局(2011)

■一般財団法人 法政大学出版局

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その他数冊

つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/07/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98949/

   

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日記

分析哲学を含む本書の難解な論理と格闘した。

三作目の小説を執筆するにあたってどうしても考え抜きたいテーマである。

今日は手応えを感じた。

難解な本に体当たりして収穫があれば達成感を感じる。

・・・

じっくりと精読をした。要所要所でメモを取り、流れを掴むことに努めた。

まずはヒュームが定義する「事実」をメモ。

“ヒュームの「事実」という概念は、それについて感覚可能な「印象」が存在しうるような何かであるにすぎません” P25

ヒュームは、知覚が伴わなければ事実にはなり得ないという態度である。

「倫理的な現象」や「倫理的な概念」といった抽象は知覚できないから事実にはなり得ないというヒュームの構えは理解できた。

パトナム氏はこれに解説を加える。当時は「原子」ですら想像上の概念でしかなかった。今でいえば「暗黒物質」のようなものだ。

しかし相対性理論が成功を収めたことによって、このヒュームの考え方は完璧であると言えない状況だ。

しかし論理実証主義者カルナップは事実は観測可能でなければならない、という考えに固執した。

やがて紆余曲折を経て、考えを修正。とはいえ、「多少」の修正にとどまった。

あくまで事実的内容は「科学的言明の体系」から説明されなければならないとカルナップは考えていた。

「残酷」といった心情的な言葉についてはどういう扱いになるだろうか。著者はこの点について「観察的ー理論的」の二分法で説明した。

青い、熱い、より大きい、といった言葉は観察可能な傾向性を持つため「観察的」である。

「残酷」は観察可能な傾向性にはないため、「理論的」かどうか検討する必要がある。

著者いわく、カルナップはこの問いに対して「それはウェーバーの神秘的な了解」もしくは「形而上学的無意味」と答えるだろう、とされた。

第一章では、「事実/価値」の二分法の崩壊の意味が少し理解できた。

科学哲学側からの主張と倫理学者の主張には対立があるためにややこしくなり過ぎている。

著者はいう。感情は主観的であるが、それはなんらかの普遍的な法則に依拠していないことを意味しない。要するに感情を数学的に、客観的に記述することが不可能に近いことが問題なのである。

著者は言う。

“私が主張しているのは、客観性を記述と等値することはもうやめるべき時だ、ということです” P39

第二章が気になるところである。

・・・

数学、物理、化学などの理系学問は白黒ハッキリさせたがる。というよりも、ハッキリさせることが必然的に要請される。

これらは理論によって黒、規約によって白になるグレーゾーンを許容しない。

この排他性が倫理の多面性と相容れないような気がするのであった。

倫理を「議論のための議論」と片付けるのは容易い。

ソクラテスのように深い議論が無意味だとは思えない。そして深い議論をしなければ見えないものもあるように思う。

公開日2023/3/2

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