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読書日記961

モーリス・ブランショ『終わりなき対話 III 書物の不在(中性的なもの・断片的なもの)』筑摩書房(2017)

■株式会社筑摩書房

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その他数冊

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日記

昨日まで『カント 美と倫理とのはざまで』に全力を捧げたので今日は集中力や気力に欠ける一日であった。

池田晶子は権利が「神が死んだ」あとに生まれたものだと書いていた。

人権の確立など、人間にとって多少進歩したかに思えた20世紀以後、果たして本当に進歩したといえるか。

池田晶子は、権利によって人間はあらゆるもの(食欲や性欲によって派生する一連のもの)を欲するようになったと述べた。

そしてその「暴走」を制御すべく法律が整備され、それを守ることが「義務」となったと書いていた。

このあたりをじっくり読んだあとじっくり歩きながら帰った。

以下、だらだらと妄想を書いていく。

・・・

個人個人が合理的に行動したにもかかわらず、全体としては不合理な結果になることは「合成の誤謬」という用語によって説明されている。

これをよくよく考えてみれば、そもそも「なんための権利(≒自由)なのか」という単純な疑問が生まれる。

そして「本当の自由とはなにか」と問わざるを得なくなる。

個人としての自由が全体として自由となり、かつ部分の総和が全体と一致しない(≒ゲシュタルト崩壊)社会など存在し得るのか。

久しぶりにアナロジー的に物事を考えてみた。

本当の自由が確立された世界を「合目的的な世界」としてみる。

そこには全てが「美」で満たされている。

本当に自由な世界はそれを制御する「法律」は存在しない。

自然界は概念を必要としない。

法律とは雑音のようなものである。

雑音の混じった音楽が美しいと判定できるか。否。

ただ、美しい周波数を持った雑音であれば少なくとも「快」である。

「快」は「美」の一部であるはずなので、本当に自由がある世界において法律が全く不要な存在であるとも思えない。

すると、自由とは調和のある世界という発想が出てくる。

また、美しい音楽は不協和音を必ずしも排除するものではない。

必要悪は不協和音か。

公開日2023/3/14

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