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読書日記977

古川日出男・佐々木敦『「小説家」の二○年 「小説」の一○○○年』Pヴァイン (2018)

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日記

古川氏の発言を読んでいくと、小説のなかに宇宙全体を詰め込んでやろうという気構えを感じた。

小説というものは現実でなければならないという考えが選考委員の頭にあり、芥川賞受賞作はその傾向にあると中俣氏は見ている。

個人的にも小説というものは、映画とは違い視覚(目の前の現実)と聴覚が剥奪された状態において、いかに巧みな文章表現でそれを読者に伝達するか、その技術が問われている、という暗黙の前提が置かれているように感じる。

しかしそれは絶対的なものではなく、文章表現というものは小説というものが持つ多面性のなかのひとつの要素にすぎない。

かくして「優れた作品とは何か」という定義が曖昧になり、「権威(芥川賞など)」によって価値付けされることによって、本棚に置かれる小説作品は売れることになる。

・・・

これが小説の限界なのだろうか。

小説は権威を必要とするのか。

文学は更新され続けるべきなのか。

小説の目的とはそもそもなにか。

教育は人々の自律を促す。

科学は人々に幸福を与える。

経済学も幸福を与えることを目的としているはずである。

小説は人々に何を与えるものなのだろうか。

よく言われるのが「心の栄養」である。

わからなくもない。

言葉がうるおうことにより、心もうるおう。

なんだか抽象的ではあるが、分からなくもない。

いや、正確には分かっていない。

分かっているつもりになっている。

作家はあるテーマを決めたらそこに全てを注力する。

古川氏によれば、作家はボクサーよりも仕事中に亡くなるのだそうである。

睡眠時間を限界まで削る。

試合よりも、マラソンよりも遥かに長い長期戦である。

10年かけて生まれる作品もざらにある。

血となり肉となった魂の本が今、売れない。

むしろ、魂が抜けていくような娯楽にお金が流れていくように見える。

これが芸術家の宿命であり、宿敵である。

彼らは今何に向かうか。

なんのために何を書くのか。

こういうものを読み取れればなと、あるいは感じ取れればなと思う土曜日であった。

公開日2023/4/1

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