■有限会社月曜社
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メモ
“作者の権威を問い続けること、そのことによって逆説的に主体の痕跡を完全に消失してやまないことは、文化作品がたんなる消費財ではなく大衆芸術として歴史に責任をもち、現実の暴力への批判的介入となる可能性を、かろうじて担保しておくことであったのだろう。” (中井亜佐子『<わたしたち>の到来』P61 )
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日記
『真文学の夜明け』をきっかけに再度、出版業界の構造的欠陥について考えてみた。
結論から書くと、読者の古典(=文学作品)に対する関心、好奇心を付与する本が中小規模の書店に無いという、ただこの一点において、すなわち書店における「売上至上主義」が逆説的に売り上げを落としているのではないか、と私は考えた。
古典は深いレベルで人生を、人間を問う物語の構成となっていることが多い。
表面的な「自分探し」は、自己が社会にどれだけ規定され、自己は社会といかにして関係づけられていくのかという問いにまでは至らない。
部分である「個人」の集合である全体としての「社会」は、果たして単に個人個人を総和するだけで説明できる概念なのだろうか。
ゲシュタルト理論のごとく、部分の総和が単純には全体にならないという法則は隠れていないだろうか。隠れているならばそれは何か。それが個人とどのように関係しているのか、という問いにまでは至らない。
従って、古典に強い関心を持つことができればドミノ倒しのように問いは連鎖反応を開始し、個人的な問いが政治・倫理と結合し、以後は歴史・人類学・経済・科学・文学・芸術その他数多くの領域にまで派生するものである。
それは、まだサルトルが生存していた頃には「主体性」「実存主義」「投企」といった言葉とセットで語られていたが、今では一部の層を除いて死語となっている。
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本が売れないのはいうまでもなく、表面的な問いが以上述べた分野にまで派生しないがために「思考停止」し、書物への関心が失せていくからに他ならない。
だから結果的に売り上げは「減少」し、果ては「倒産」である。
おそらく本は過去の売上数によって「ランク付け」されている。
そして安牌を選択することによって安全に行こうとすればするほど失敗していくわけである。
なんらかの付加価値によってかろうじて倒産をまぬかれるにせよ、いずれは朽ち果て、その空いたテナントには人間のなんらかの欲望を埋め合わせる飲食店などが軒を連ねることに終始する。
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人間の活力とはなにか。その源泉はなにか。
凡人は「欲望」あり、天才は好奇心から派生した「信念」である。
これはいろいろな本を読めば読むほどにそう思わざるを得ない。
欲望が行動の起爆剤として機能する経済至上主義のなかで書店が生き残るのは至難の技である。
公開日2023/4/9