閉じる

読書日記1024

          ジャック・デリダ『哲学への権利 1』みすず書房 (2014)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日記

自分は松岡正剛氏の編集的な読書法に大きく影響を受けている。

多読の醍醐味を教えてくれたのも、同時読みの意義を教えてくれたのも、読書の楽しさを教えてくれたのも概ね松岡氏によるものだと感じている。

とくに、角川ソフィア文庫から出ている松岡氏の『編集力』と『本から本へ』は、気になった本をすぐに読みたがる自分に嫌悪を抱いていた頃に手に取った。そんな自分に対してこれらの本は「もっと自由に本を読んでいい」と応援してくれているような気がしたと記憶している。2,3年くらい前の話である。

点と点を繋げなければそれらは雑学であり、ただのトリビアである。

つまりは「連続性」が重要であり、算数から数学への移行もこの連続性に依拠していると言える。

換言すれば、本当の意味での専門知は領域横断性にあると言える。これは自分が尊敬する小室直樹の知の在り方であった。

そしてデューイも学校教育におけるこの「連続性」の意義を語る。

“ほとんど誰もが自分の学校時代を顧みて、在学中に蓄積したはずの知識が、現在はどうなってしまったのかと疑っている。(・・・)実際、進歩するために、知的に前進するために、学校で学んだ多くのことをさらに学ぶ必要があることに気がつかない人は、まことに幸せな人である。これらの問題は、教科が少なくともその試験にさえ合格すればよいというように学ばされたので、教科は真に学習されたのではなかったといって、片づけられてよいというわけにはいかない。そこにみられる難点は、問題の教科が独立したかたちで学ばれたということである。” P71 (『経験と教育』)

教科の独立によって知が繋がらない。だから松岡正剛氏的な「編集力」が大人の人間に問われている。それをデューイがここで語っているわけである。

思うに、20世紀は学術的にも経済的にも今までの人類史上、とてつもない飛躍を遂げたはずである。

とくに書物に関しても、良書も悪書も混在しているが読むべきものが大量に生産されたはずである。

これらを読まずして、つまり内省のみによって知的に前進することはナンセンスに思われる。

内省と編集的読書(≒多読)の弁証法。

巨人の肩に乗るというのはまさにこういうことを指すのではないだろうか。

・・・

ジャック・デリダについては、いわゆる「ニューアカデミズム」について池田晶子は「偽物」と吐き捨てたが、『哲学への権利』には「哲学」と「思想」は別物であるという池田晶子の主張と重なっているものを感じた。

詳細は分かりかねるが、フランスでは哲学教育を廃止することが検討され、それを阻止すべくデリダはGREPHを立ち上げた。

「思想」ではなく「哲学」に対する侵害はイコール「考える」という人間の根源の営みを否定するものである。

ざっくりといえば、池田晶子は「思想」については「他者のもの」であるとし、「哲学」は自分のものであるとした。

読んでいると、なんとなくではあるが、デリダはこの「内(哲学)ー外(思想)」の二項対立を論じながら抵抗している様子が伺えた。

最近は教育哲学に関心を持ち始めたので本書はいろいろと考えさせられる。

公開日2023/5/11

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free