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読書日記1031

     円堂都司昭『ディストピア・フィクション論:悪夢と現実と対峙する想像力』作品社 (2019)

■株式会社作品社

公式HP:https://sakuhinsha.com/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/sakuhinsha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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日記

しばらくこの2冊だけでも十分に読書ライフを楽しめそうだと思えるくらいに、この2つの本は相性が良い。

『読書の裏側』の第三章ではニコラス・キャロライズ&マーガレット・ボールド&ドーン・ソーヴァ『百禁書』について語られる。

本書によればジョージ・オーウェル『一九八四』と『動物農場』は教育委員会と公立図書館から読書拒否声明を受けたとされる。

松岡氏は、書物はつねに学校の「良識」による水準によって狙われると語る。(この良識の部分は松岡氏によって強調されている。)

ゲーテ『若きウェルテルの悩み』ですらも、それに追随する形で自殺者が増えてしまい禁書になった過去があるということであった。

ノースロップ・フライは『批評の解剖』のなかで教育の目的を「平凡な社会に適応しない人間をつくること」と述べたが、この文脈で考えるとその学校の「良識」には悪意すら感じる。

『読書の裏側』は一度パラパラと読んだだけで売ってしまったが、これは非常に貴重な本である。

本に対するあらゆる知見を提供してくれるだけでなく、本という特殊な媒体が持つ複数性、そして社会との交差性について示唆に富む内容となっている。

世の中には「図書館学」という学問があるものの、「本」に関する研究はどうも少ないように思えてならない。

本という世界のなかで公共(図書館など)とアカデミズム、そしてビジネスの全てに携わっているのはおそらく松岡氏が最初で最後なのではないのか。

勿論、松岡氏の弟子にあたる人たちがその後を継ぐのだろうけれども、本と本をつなげて立体的に知を構築していく手法を実際に行っている作家はほとんどいないように見える。

アクターネットワークというものがそれに近いが、どうも勢いを感じない。

書店に行っても読みたい本はあるが、領域横断的な本が少なすぎる。

社会学は大局的に論じられるが、抽象性が強すぎる。

具体性のある本は領域が狭いというジレンマを出版業界は抱えていやしないか。

・・・

もうひとつ書こうと思ったことがあったが忘れてしまったのでここまでだらだら書いてしまった。

ここでようやく思い出した。

松岡氏のクリティカル・シンキングの実践はシンプルだ。

「鵜呑みにせず自分で調べに行く」

これを行うことによって「理解するための読書」から「理解できるから楽しい読書」になるのだという。

発想の逆転である。

『読書の裏側』を読んでから『ディストピア・フィクション論』を読み始めるといつもとは違う視点から読むことが可能となった。

松岡氏は分からなくても読むことの意義を語る。

また、第四書では松岡氏の本に対する深い思想が語られる。

「読書」に関する深い問いかけであった。

・いったい読書とはそもそもどういう知的な作業か

・日々のなかで本と付き合うことにはどんなアフォーダンスがひそんでいるのか

・読書中に脳の各分野やニューロン・ネットワークは何をしているのか

・そもそも書くことと読むことはどのように対応しているのか

・本という商品は生活にどんな役割をもたらしているのか

・その本を作ったり編集したりするパフォーマンスの最も重要な意義はどこにあるのか

・そのパフォーマンスは本を売ったり買ったりするというコスト・パフォーマンスと対応できているのか

・以上のことをグーグル・アマゾン社会の浸透のなかでどう融合させるのか

松岡氏は以上の問いかけを行い、解明し、統合させることが大事だと語る。

“(・・・)一言で言えば、「読書の生活」と「読書の哲学」と「読書の科学」と「読書する行為」と「読書という事業」とを決してバラさず、ちゃんと付き合わせ、新たな統合ブックウェアとして組み立ててみることである。いわば「読書の裏側」をあれこれつなげていかなくてはならないということだ。” P320 (『読書の裏側』)

本に対する情熱に、こちらも熱くなる。

公開日2023/5/18

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