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つづきをよみおえた。
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感想
この本を本当の意味で理解するには一生分の時間を費やさなければならない。
ヘーゲルが一生をかけて構築した「体系」が現代思想にどのように枝分かれしているか、仲正教授は一般向けの本にしてはこれ以上のものがあり得るのか、というほどにコンパクトに、かつ端的にまとめあげられた卓越した一冊であるように思えた。
本書を批判するにはそれ相応の力が求められる。
ゆえに、自分はただただ畏敬の念を抱くだけである。
ヘーゲル『精神現象学』『大論理学』
バトラー『欲望の主体』
ラカン『エクリ』
ジジェク『もっとも崇高なヒステリー者:ラカンと読むヘーゲル』
アドルノ『啓蒙の弁証法』『否定弁証法』
ファノン『黒い皮膚、白い仮面』
ハーバマス『真理と正当化』
最低限、これらの本を一読しなければ本書の批判はできない。
このような本は思想史の研究家にしか書けない。領域横断的、というよりも専門横断的という表現が合うくらいに、教授という威厳を感じさせられる一冊であった。
自分が本書から学習し、引き出せるものはまだまだほんのわずかであり、いかに無力であるかを痛感せざるを得なかった。
・・・
自分は文学と芸術に関心が強い。そのため芸術に関連の高いアドルノとベンヤミンに対する関心が強いので、この二人に言及するページを繰り返し読んだ。
仲正氏によれば、ヘーゲルの歴史観には「合理性」の性質があるとされる。
合理性は、マックス・ウェーバーの「鉄の檻」の条件でもある。
仲正氏によれば、アドルノはヘーゲルの一元的な歴史観に潜む啓蒙主義の暴力的側面を『啓蒙の弁証法』で描いたとされる。
言ってみれば「貨幣」を例にとっても、資本主義においては何事も「数値」化されてしまうことで「均一」性を与えられてしまう。
消費と生産のメカニズムに取り込まれ、物事は「同一化」する。詳細には分かりかねるが、それが「一元的な歴史観」とたしかに繋がっているような気がしなくもない。
ヘーゲルがどこまで資本主義の先を見通していたのかは自分には定かではないが、貨幣を媒介とする生活空間には人間の個性でさえも転職市場では「商品化」されてしまう現代では、たしかに「差異」でさえも交換価値に還元されていく気はしてくるのであった。
・・・
人文系の学問は決着がつかず、批判の応酬がつきものだ。
自分はアドルノの「限定的否定」という考え方に画期性を感じた。
批判がつきものだということは、換言すれば言葉の定義が曖昧なことによる。
「それは○○だから○○なわけで、、、」
「そもそもなんで○○?」
「○○は○○だからそれはちがう」
言葉の定義というよりかは、概念や知が定まりきれていない。
人文には数学とは違って「1は1だ」という言明は、同語反復する為にしにくい。
かといって「1は1だ」という「共通前提(=公理)」もない。
アドルノは何かを規定(≒定義)することは別のなにかを否定することと等しい、という発想をスピノザから得た、と本書に書かれている。
「○○は生物である」という規定は、「○○は植物ではない」ということと等しい。
これを概念のレベルにまで掘り下げていけば人文上の、定義をめぐる不毛な議論を避けることができる。
『否定弁証法』がどのような戦略で展開されていくのか、本書が分かりやすく教えてくれる。
それだけでも十分な収穫であったように思う。
新書は次に読む書物の読解の手助けとなる、独学の友である。
(本書は本当に難しいので勢いで書かざるを得なかった)
公開日2023/6/25