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読書日記1064

J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』白水社 (2006)

■株式会社白水社

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その他数冊

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日記

休日は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を、時間をかけてじっくり読んだ。

物語の格子が掴みかけたときに集中力が増してきたので今日は140ページ弱まで読み進んだ。

主人公の自由を大切にしている点や、饒舌でユーモラスな性格が好きになれた。

タイトルの意味がまだ全くわからないが、後半が楽しみである。この日記を書いたあとにも少し読み進めようと思った。

・・・

『ヘーゲルを越えるヘーゲル』も、一応のところ220ページほど進んだ。

ヘーゲルの歴史観は一定の目的に進んでいるという前提があるが、この前提は人間の能力を遥かに越えた「絶対知」によってしか把握できない。このヘーゲルの想定した物語をどのように正当化できるのか、そもそも正当化できるのか、という問題が現代哲学に継承されているという点は理解できた。

また、本書のなかでジャック・ラカンのいう「対象a」についても軽く説明がなされた。

ラカンは精神分析家であるが、ラカンもヘーゲル研究を行っていたという点から、現代思想史的にはラカンの理解も必要とされるとのことからラカンの話も多少語られた。

素人からみても、人間の欲望というものは政治において無視できない点であることは自明である。

法で抑制しなければ社会は混沌状態に陥る。

ポスト構造主義的には、欲望というものは「母の身体」「自然との一体化」が欠如することによる喪失感に起因するとされる。そしてそれを埋め合わせるのが「対象a」と説明された。

オタク文化のフェティシズムも「対象a」に還元されるということであったが、新書であるということから文字数に制限がありかなり省略されている為、いまいちパッとしない説明であった。

また、ヘーゲルは時代の影響もあってか、言論の弾圧を避ける形で一部を歪曲、あるいは美化しているという指摘があった。

「ヘーゲル左派」と呼ばれる思想家(ラカン派と呼ばれるジジェク等)たちは、その美化されたヘーゲルの部分的な主張に対する意義申し立てを行う立場にある、ということは理解できた。

・・・

加えて現代思想上、ひとつの潮流である「推論主義」の説明がなされた。

これは「規範」がいかに生成されるかという点を掘り下げる哲学というものであった。

なぜ推論かというと、ある規範にコミットしている人物がいたとして、その人物を信頼する他者がその人物の規範を推論することによってある程度の「共通の規範」が生成される、というイメージであった。

今日は現代哲学のごくわずかしか理解できなかったが、それでもやはり、わからない箇所があってもひとまず読み進めば何らかの収穫は得られるように感じた。

推論主義の哲学は訳のわからない哲学だと思っていたが、意外にも道徳哲学と交差する哲学だと知り、新しい発見であった。

公開日2023/6/24

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