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新・読書日記108

         ジャック・デリダ『プシュケー 他なるものの発明(I)』岩波書店(2014)

■株式会社岩波書店

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          トーマス・ベルンハルト『推敲』河出書房新社(2021)

■株式会社河出書房新社

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その他数冊

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メモ

“ポール・ド・マンは、アレゴリーの使命もしくは要請とでも呼ぶことができるかもしれないもののパラドクスを力説する。アレゴリーはみずからのうちに、「要求がましい真理」をはらんでいる。アレゴリーの任務は、「真理と虚偽という認識的次元を、説得という語り的・編成的次元に連結すること」である。” P8-9 (『プシュケー 他なるものの発明(I)』)

  

岡本太郎「文学でも、絵でも、あらゆる人間の精神活動はその複雑な矛盾の上に成り立っている」

  

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日記

おそらく初めて、ジャック・デリダの本を真面目に読んでみることにした。

デリダという謎の思想家の存在を知ったのは今から約5年前であった。

当時哲学といえば池田晶子くらいしか知らなかった自分は、現代思想と呼ばれる(いわゆるニューアカ)異質な書物に不思議な魅力を感じたものであった。

しかし当時は今よりも虚栄心が強く、ただそれを理解したいという不純な動機のみによって(今でもその動機は完全に消えることはない)ひたすら文字を追っていた自分を思い出す。

  

という真面目な前置きはこのくらいにして、今日の日記を書いていきたい。

デリダの文章は読んでいて苛立つこともあるが、言語が量子力学的な性質を持ち(いわゆる不確実性)、それが科学の世界とフラクタル構造になっているということに気づかせてもらったという点で感謝をしている。

メモ欄に書いたアレゴリーの定義はそれが見事に現れているように感じる。

言葉の意味は常に二重性を持っていて(ベイトソンでいうダブルバインド)、それがどちらとも受け取れるという曖昧さは、よくよく考えてみるとやはり不思議である。

世の中に、二重性、不確定性を持った情報を扱う生物はどのくらいいるのか。

例えば、ニューロンにとって、細胞にとって矛盾とは何を意味するのか。こういうことを考えてみると面白い。

  

・・・

トーマス・ベルンハルトの『消去』は、家族の悪口が延々と続きながらもそのなかに真理が潜んでるという物語の構造になっていたが、『推敲』もなんだか同じような雰囲気を醸し出している。

こちらも相変わらず悪口が多い。トーマス・ベルンハルトは小説を、文学を何かのはけ口として使用しているのではないかと感じさせるほどである。例えば兄弟について以下のように見下していたりする。

“(・・・)あらゆる精神的なものを嫌悪し、思考と関係する事柄には軽蔑しか抱いたことがなく、そのことを隠そうともしないどころか反対にことあるごとに表明する兄弟。この美しく、徹底的に堕落したやつら、それこそ私の兄弟なんだ。” P36-37

  

ただ、書き手側の立場に立ってみると、ベルンハルトの文体が相当洗練されていることを痛感せざるを得ない。

書きたくてもなかなか書けないことはいくらでもある。

文学者はそういうことを平気でやってのけるものである。これはまさに、書き手側が精神的な高みに到達している証拠である。

・・・

ベルンハルトの本を読んでいると、自分もそろそろオリジナリティの文体を身に着けたいと思いつつも、日記を書きながら感じるのは、己の無力さであり、やはりどことなく評論家のようになってしまうところに自分の限界を感じてしまう。

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