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日記
『不可能性の時代』と『新世紀のコミュニズムへ』は両方とも100項までたどり着いた。
『不可能性の時代』はとっつきにくく、初めて読んだ日はさっぱり理解できなかったが読みつづけることで部分的に大澤氏の言いたいことが見えてきた。
大澤氏は戦後、日本社会は「理想の時代」から「虚構の時代」へとシフトしていったことを様々な殺人事件や社会的な出来事から説明する。
今日ひとまず整理したのは、まず「理想の時代」は1945年~1973年まである。
「理想」がなにか、最初は読んでいても見えなかったが、これは抽象的にはアメリカをある種の「憧れ」とする国民の態度である。
マイホームや経済的な豊かさを「理想」とし、その実現に邁進した、それが「理想の時代」の象徴であることが理解できた。
1974年の『経済白書』の「副題」には「成長経済を超えて」と書いてある。
高度に日本社会は経済的に成長し、今まで抱いていた「理想」というものがある程度達成されたということである。
大澤氏はこれが「理想の時代の終焉」であり「虚構の時代の到来」であると語る。
その後、1983年には漫画『ブリッコ』において初めて「オタク」という言葉が出現したり、1984年には現実の社会生活に深くコミットしない「新人類」という世代が誕生した。
1960年代生まれの親に直接確認したが、「私たちは新人類と呼ばれていた」とたしかに言っている。
また、東京ディズニーランドも1983年に誕生している。
「虚構(=フィクション)」と言われてもなんだか抽象的でよく分からないが、本書の説明はうまく表現されているよう思う。
虚構の性質は「分離」にある。以下、具体的に書いていく。
東京ディズニーランドは、パークのなかから「外=現実」が見えないように徹底的に工夫されている。つまり「外」と「内」の分離である。
昔流行った「ギャルゲー(=恋愛ゲーム)」は、恋愛に伴う「傷み」や「苦痛」が分離され、「快」だけが抽出されている。
ノンアルコールビールは、ビールから「アルコール」が分離されている。
サバイバルゲームでは「死のリスク」が分離されている。
大澤氏はつぎにリベラルの主要である「多文化主義」を「信仰なき信仰」と表現する。これは本書の終盤の内容への伏線であると述べられたので、記憶に定着するように書き残した。
・・・
つぎに「オタクの時代(=虚構の時代)」の章に入った。
大澤氏によるオタクの定義が絶妙に、端的に捉えている表現だと感じた。
大澤氏がいうには、オタクの性質には「意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡」があるとした。これは抽象的なので具体的に説明すると、要するに「無駄な知識ばかり(=無意味性)持っている(情報過多)ので、意味量と情報量に不釣り合いが生じているということである。特徴を抽象的にまとめあげる大澤氏の文章は上手いとここで感じた。
また、大澤氏もエドマンド・バークと同様に、オタクが狭い領域に没入する背景には、それぞれの領域に貫徹する普遍的な法則性があると見ている。
バークは趣味に関して「なんたかの普遍的な法則がないはずはない」と『崇高と美の観念の起源』のなかで述べている。
『不可能性の時代』については、ひとまずある程度は流れが掴めたように感じた。
しかし以前として「何が不可能なのか」という問いが残されている。
・・・
『新世紀のコミュニズム』のつづきを読んだ。
リーマンショックの教訓として、大澤氏は資本主義の行き詰まりは「社会主義」的な手法によって解決されるというテーゼを提出した。
リーマンショックでは政府が大企業や銀行に、莫大な公的資金を投入したと書かれていた。
コロナ禍も同様に、経済活動が中止されると政府が介入しなければならず、資本主義の原理だけでは解決できないことが露呈された。とくにエッセンシャルワーカーと呼ばれる、人と人とが接触して初めて成り立つ業界では顕著であった。
社会主義は敗北したが、資本主義の行き詰まりでは社会主義的な、国家による介入が効果を発揮するという、「回帰」的な現象は読んでいて面白いと感じた。
タイトルがなぜ「新世紀のコミュニズム(=共産主義)」となっているのかが少し分かってきた。
資本主義の原理だけに頼っていては必ず限界があるであろうし、「共産主義の良いところだけ採用せよ」と述べていた出光佐三を彷彿とさせた。
つづく
公開日2023/7/5