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つづきをよみすすめた。
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日記
180ページほど読み進めた。
本書のタイトルの一部である「不可能性」の意味が少しずつ分かってきた。
今日は「正義の不可能性」と「計算の不可能性」について語られた。
大澤氏は「リスク」と「危険」の違いを強調した。
「選択・決定」がなければリスクではない、と説明された。
本書によれば、リスクの語源はイタリア語の「risicare(=勇気をもって試みる)」であるとされる。
リスクと意志決定はセットであるということであった。
・・・
「正義の不可能性」とは、「知識」に基づく「倫理的・政治的決定」が理論上できないという意味であった。
“リスク社会がもたらすもうひとつの効果は、「知」と「倫理的、政治的決定」との間の断絶があからさまなものになってしまう、ということである。学問的な認識と実践的な決定との間には、決して埋められることのない乖離がある。前者から後者への移行には、原理的に基礎づけられない飛躍がある。” P134
153項には、このことに対する注釈が記載されている。
ウィンストン・チャーチルは『第二次大戦回顧録』の末尾では、さまざまな領域の専門家たちが特定の政策的な選択に対して、支持すべき理由とそれに反対すべき理由がほぼ同じ比重で挙げることができてしまう、という旨が書かれているようである。
具体的な例を挙げると、これはコロナ禍の混乱で見受けられた。例えば経済活動を優先とするか、もしくは完全にストップしてしばらく人間の生産活動を制御するか。両立不可能な問題に対してどちらを取るべきか。日本ではあまり議論されていないように思えたが、正解がなければ中庸もないというジレンマがリスク社会においては起きるということであった。
個人的にはコロナ禍においては文化活動(とくに音楽)が日本全体的に中止に追い込まれた事例を思い出す。文化は不要不急なのか、そうではないだろうという声が少なくなかった。
これは『新世紀のコミュニズム』においても書かれていた。緊急時には人間同士が連携しなければならないが、「人との接触を避けよ」と、どんどんバラバラになっていく現象が発生した。
緊急時において民主的な意見は「ゾーエー=剥き出しの生」の原理に従うことが示された。
民主的な意見として、緊急時は文化は不要とされたのはこの原理で説明される。
しかしどうなのだろうか。
ソクラテスは「生きるために食べる」と言ったが、これについて思うことがひとつあった。
生産的(経済的)行為は「食べるための行為」であって、創造的(文化的)行為は「生きるための行為」であるとすれば、パンデミックという現象は人間を一時的にゾンビ化するものだと思えないだろうか。
・・・
計算の不可能性とは、つまり地球温暖化はこのまま加速するのか、脱成長すべきなのか、むしろ成長を加速させるべきなのか、このような地球規模の予測は「不可能」ということである。
『銃・病原菌・鉄』によれば、氷河期にはサイクルがあって(氷河期は約20回訪れている)今後も来る可能性は否定できない。
科学は日々更新されるものであり、証明されたものを除いて「仮説」にとどまる。
ハイデガーは「情報とは命令である」と述べた。
情報のシャワーとは、ハイデガー的には命令のシャワーなのである。
なにをすべきか。今日のカオス的な情報量に、人間は何を基盤に日々行動しているのだろうか。
答えがない。今後も目の前は選択の連続であり、目先はリスクでしかない。
「不可能性の時代」のタイトルの意味を少しすくえたように思う。
公開日2023/7/6