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読書日記1087

      ミシェル・ドゥギー他『崇高とは何か』法政大学出版局 (2011)

■一般財団法人 法政大学出版局

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日記

倫理と美の違いは、前者は苦を伴うが後者は常に快であるという点にある。

合目的性を備えた美が何故人間に必ず快を与えるのか、これはよく考えれば壮大な謎である。

合目的性を意識(=自己)によって実行すること、その行動の内容が倫理となる。

人道に沿い続けることが倫理的な生き方であるが、文字通り時に人は道から外れる。

それは意識(=自己)が感情、情動に勝てない時があるからである。

感情の奴隷はすなわち野蛮を意味し、感情にだけ従うことは明らかに倫理的でない。

しかし感情は明らかに必要なものであり、あらゆる力の源泉となる。

感情のない人間が人間らしさを持っているとは考えにくい。

よくよく考えると感情と理性のバランスは、合目的性を考えれば明らかに不均衡である。

だからこそ倫理や道徳、美学の議論が尽きないわけである。

考えれば考えるほど深みにハマる。

崇高の力は人間を感化させ謙虚にさせるところにある。

壮大な宇宙を思えば、人間があまりにも無力であることが分かる。

崇高の力はここにある。

しかし崇高は美ではない。

ときに激しさを伴い人間を恐怖に陥れる。

美と崇高と倫理の交差点はわずかに見えるが、それぞれの複雑な回路はあまりにも不可解である。

公開日2023/7/23

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