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読書日記1127

               平川克美『「答えは出さない」という見識』夜間飛行 (2023)

■株式会社夜間飛行

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その他数冊

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日記

平川氏は答えを求めるよりも「問いを抱えて生きる方法」を求めることを推す。

自分はどちらかといえばやはり答えを求めがちだとこのブログを見て、書いて感じている。

アウトプットの良いところは、頭が整理されスッキリすることだけではない。

何も書かなければすぐに忘れる。そしてなかったことになる。読んだことすら忘れてしまうかもしれない。だが、書くことによって回避できる。

書いたことは事実なので、敢えて消そうと思わない限りは記録は残り続け、客観視できる。

日々書いていて感じるのは、自分はどこかに必ず答えがあると信じているということである。

この本は「こういう意見もあるのだな」と、いろいろと感じるものがあった。

・・・

「性格は相対的なもの」と平川氏は語る。相性が良いことを英語では「ケミストリーが合う」というみたいである。化学反応は普通、異なった物質同士が作用し合う。つまり単独では起こらないと言える。

ベイトソンは「メッセージが関係をつくる」と『精神の生態学』で書いている。

この類似が面白かったのでもう少し自分で掘り下げた。

性格は関係的なものに依存しているならば、「メッセージが性格をつくる」と書き直しても特段違和感はない。

人間は言葉によってつくられる、というのは池田晶子が何度も述べている。自分も、性格形成のうえで言語の果たす役割は大きいと見ている。この点に関しては、大学生の頃に学んだ言語学の立場からも妥当であると思われる。

ということは「言葉が性格をつくる」と言える。

ここで「人間は言葉によってつくられる」という池田晶子の考えと一致する。

昔読んだアドラー『嫌われる勇気』に書いてあったと思うが、何かを選択するのは(あるいはしないのは)、それが好きだからだ、というテーゼがあった。

例えば、「痩せたい」のに「痩せられない」のは、今の状況(つまり痩せようとしないこと)が好きだから、それを自分が選択しているからだ、という内容だったと記憶している。

話を戻すと、例えば「自分の性格が嫌い」というのは、やはりそれを自ら選択しているからだ、ということになる。

それでも本人からすればこの理屈は「??」となるかもしれない。

ここでベイトソンの学習理論が幅を利かせる。

・・・

小坂井氏は少し虚無主義寄りなのかなと思われるところがある。

“脳科学や認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識的な認知過程によって生成される。” P281 (『答えのない世界を生きる』)

リベット実験によって人間にはごくわずかな時間にしか意志決定できる猶予がないことが示された。そして「自由と責任」がセットではなく。自由がなければ責任はないので、虚構によって責任が生み出されることを指摘した。

小坂井氏はフランス哲学者ボール・フォーコネ氏の発言を引用した。

“人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由だと思い込むのである。” P282 (『答えのない世界を生きる』)

さて、「無意識的な認知過程」とはなにか。

無意識は習慣で形づくられていると考えてみるのは、普通に考えて妥当だと思われる。認知行動療法では「スキーマ」と呼ばれる。

習慣とは時間軸で考えると「少し前の自分」と言える。

つまり、

「無意識 ≒ 少し前の自分(習慣という意味において)」

だと自分は思うのである。

自由意思を元にした自己責任論が破綻するのはこの「少し前の自分」というものが、結局は無限後退して胎児の頃にまで遡ってしまうからである。

しかし本当にそうだろうか。

最初に「性格とは相対的なものである」と平川氏が書いていたことについて触れた。

自分は、この無限後退のなかに存在する無数の「関係」というものが軽視されていると感じた。

世界は無数にあるコンテクストで成り立っている。それがベイトソンの捉え方であった。

とはいえ、小坂井氏の矛盾の突き方は鋭く、読んでいて魅力的であり参考になる。

自分は小坂井の論理を定式化した。

「xを正当化するためにyという虚構をつくる」

さきほどの例に当てはめれば、

「自由意志を正当化するために責任という虚構をつくる」

になる。

本当は自由意志など存在しない(と小坂井氏は考えている)のに、責任を負わせるために虚構によって正当化される。

つまり、

「yという虚構を作るためにxが正当化される」

と言い換えることもできる。

ちなみにであるが、『格差という虚構』(ちくま新書)の論旨は、

「格差という虚構を作るために能力の差が正当化される」ことを暴いた本であった。

そもそも虚構はなぜ作られるのか。

それは、解決不可能な矛盾が存在するため、便宜的に解決するための措置でもあるといえる。

しかし自分は自由意志問題はまだ未解決だと思っているので虚構に関してはまだまだ考える余地はありそうだ。

自由意志が存在しないことを認めるとアドラーの言葉、池田晶子の言葉、平川氏の言葉が無意味化されてしまう。

ナンセンスではないだろうか。自分は、今日の時点ではそう感じた。

・・・

余談になるが、平川氏のコスパ至上主義に関するページを読んでいて面白い発見があった。

平川氏は、コスパ至上主義は結局割に合わないと述べている。有給が例に出された。

有給を全て使いきるのは「お得」ではある。だからといって強行して有給を全て使い果たし、そこで得た休日を別の活動に割いて生かすのは、確かに短期的にはコスパに良いが、ちょっとどうなのだろうと平川氏は匂わせる。

自分はこれがラッセルのパラドックスと似ていると感じた。

「コスパに良いこと」の集合を考える。

その集合に含まれることのみを実践することこそが「コスパ至上主義」の行動原理である。

しかし普通に考えてやはり「コスパ至上主義」は割に合わないことが多い。

コスパ至上主義が「コスパに良いこと」の集合に含まれないのである。

ラッセルのパラドックスをGoogleで検索してみた。

”ラッセルのパラドックスとは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス。”

厳密には少し違っているが、「コスパ至上主義」は「コスパの良いこと」の要素ではない。そして「コスパに良いこと」の集合を行動の原理にすると、結局はコスパに合わなくなるということは矛盾である。

平川氏の皮肉がラッセルのパラドックスと交差した。

皮肉の論理構造を昔このブログで考察したことがあったが、集合論と接近したのは意外な発見であった。

・・・

『現代倫理学入門』の「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか?」を問うページを読んだ。

結論だけ書くと、自由主義は個人の意志決定が最上の行動原理なので結果的に「文化の荒廃と混迷」を導くと著者は述べている。

部分が完全でも全体になると不完全になってしまう。

これもひとつの皮肉であり矛盾である。

仲正氏が『哲学JAM』のなかでこのような問題を多角的に論じているのでつづきが気になるところである。

つづく

公開日2023/9/4

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