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日記
池田晶子はよく小林秀雄について語る。『魂とは何か』のなかで、「なぜ私は、この人間なのか」という大いなる謎、唯一無二であるところの自分、そしてそれを決定づける運命の「必然性」というものを、小林秀雄がうまく表現していたのでそこをメモした。
(小林秀雄)”<人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう。しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は様々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない。或る人の大脳皮質に種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一あるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といいまた異なったものを指すのではないのである>(『様々なる意匠』)” P35
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『文学は美学である』をじっくり読んだ。著者は一年かけて『ドン・キホーテ』を読了したと書いてあった。そしてそのあとのすがすがしさについて書かれていた。
また、『ドン・キホーテ』を世界一の文学ではないか、とも書いていた。
自分は一度途中で止まってしまった。その時は感化力、感性、知性が全て足りなかったのかもしれない。
当時はただの大衆小説に過ぎなかった『ドン・キホーテ』は400年を経てそうではなかったことが証明された。
今年中に読もうと思う。
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『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』は、道徳について学んだ人間について批判していた。
彼らは道徳的に生きているわけではない、なぜなら寄付をしない、母親に電話をしない、血液や臓器を提供しない、哲学会議のあと片づけをしない、云々。
片づけをしないのは確かにどうかとは思う。
しかしあまりに短絡的ではないだろうか。寄付をすることが絶対的な善であるとは自分は思わない。
母親に電話をすることが何故道徳的なのかも実際のところよく分からない。
著者は倫理学は自由に関する法則だというカントの言葉を、著者はどう返すのか見たかったが、それについてとくに言及はなされない。
「自分がしてほしいと思うことをし、してほしくないと思うことはしない。」
これを当てはめてみれば、電話をする、しないは人それぞれの問題ではないか、また、臓器提供は現代のヒューマニズムとしては良いことであるが、池田晶子の臓器移植論を鑑みれば、それは絶対的な善だとも思えない。
突っ込みどころの多い本だ。いちいち止まってしまう。
一点だけ言及しておくことにする。
定量不可能なことを著者は見逃している。
気を使う、席をゆずる等、日常的な行いを実験で検証することはかなり難しいのではないだろうか。
また、道徳的であることと倫理的であることは違う。前者は社会通念上、よしとされることをどれだけ全うするかにかかっており、後者は時代にとらわれない、不変で普遍的な善を絶対とする。その区別を著者はしているのだろうか。
こういうことを無視、あるいは軽視しているように自分は感じる。
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明日は何を読もう。